衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月30日    火曜日     第1 回の開示 合計1475回の開示

偽りの果位を好むとはどのような心理でしょうか?

隔陰の謎なき再来人は、生まれながらにして聖人であり、一切の法に迷わず、自ら己が修行の果位を知り、智慧の程度を悟る。末那識が前世にて既に証得している故に、今世の意識は新たなれども宿命通を具え、前世に証得した仏法を今世に於いても悉く知り、毫も迷うことなし。六七両識共に迷わず、智慧を具え、前世と連続するが故に、生まれながらの聖人たり、再び証を要せず。

もし前世にただ意識のみが証し、末那識は証せず、末那識なお迷うならば、今世の末那識は迷い、意識もまた迷う。両識共に迷うならば、必ず共に定観行思惟を修め、証果の準備をせねばならぬ。然れども前世に末那識が証せざる故、五蘊無我に対する印象毫もなく、末那識を熏習するは極めて困難なり。意識はまた新たに生じ、前世の修行に対し印象なき故、初めより開始せねばならず、斯くの如きは長時の熏習を要し、甚だ容易ならず。

隔陰の謎ある再来人は、今世に再び証果明心するにも、尚ほ数年に亙る精進修学を要す。然るに前世に基礎なき凡夫が、今世仏法に遇うこと僅か二三年、三五年にして証果するとは、これはいかなる根器であろうか?再来人よりも速いのであろうか?

仏は証果明心の前提条件として三十七道品の具足、菩薩六波羅蜜の具足、戒定慧の具足を説き、その後因縁具足して初めて証果することを説きたまえり。然るに今は斯くの如くならず、仏の説きたまいし言葉は空文となり、辛苦して三十七道品と菩薩六度を修するを要せず、戒定慧を修するも要せず、戒律は守らずとも良く、禅定は修せず、参禅せずとも、浅き理を理解し知るだけで果を得る。禅定なき程に煩悩重く、戒を守らざる者程に証果容易く、一歩一歩実直に世尊の教えに従う者こそ却って証果し難し。これこそ倒錯時代の乱相なり。

如来蔵は真実の主君なり。然るに末那識は妄りに己を主君と認む。この偽りの主君は一切の法を我と我がものとし、第八識の功能作用を我がものとし、六識の功能作用を我がものとす。もし我見を断つならば、この主君たる末那識が我見を断たず、六識の従者が我見を断つとも何の用あらん。主君たる末那識が日夜我我と執着し、その我見を断たしめず、参謀や従者にのみ我見を断たしむるは何の益あらん。

今尚ほ悟らざる者は、真に己が大脳を検すべし。何処か錆びついてはせぬか?大脳に除錆剤を塗布する方法はないものか?末那識と意識が同時に証果明心する理を、余は繰り返し説き、既に煩わしきに至れり。然れど尚ほ一部の者は意識のみの証果明心で足ると主張す。これらの人々は何故かくも智慧劣り、かくも単純なる問題を解せぬか?如何なる業障が自心を覆い、偽りの果位に固執して一歩も進まぬか?意識の証果は容易く、自心を慰むるに足るが故、末那識の証果が遥かならんよりは、尚ほ些かの慰めを得るが故なり。

一つの果位を好み、他人が己を仰ぎ崇めるを喜び、互いに「汝は菩薩、我は菩薩、皆菩薩なり」と諂うは、これ尚ほ一つの我なり。この我を除かずして我見を断つ者たり得んや?この我執は世俗人の我よりも重く、世俗人の我に証果開悟の我を加えたる故、世俗人とは比べものならぬ特別なる感覚を抱く。この我は世俗に熏習された我慢よりも除き難し。

——生如法師の開示
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