無断無滅分第二十七
原文:須菩提よ。汝もし是の念いをなすことあらば、如来は具足相の故をもって、阿耨多羅三藐三菩提を得たまうにあらずと。須菩提よ、是の念いを作すこと莫れ。如来は具足相の故をもって、阿耨多羅三藐三菩提を得たまうにあらずと。
釈:世尊は再び須菩提に告げられた。須菩提よ、もしお前が心にこのような思いを抱くならば、如来がすべての相好を具足したゆえに阿耨多羅三藐三菩提を成就されたのではないと考えるならば、速やかにその念いを消し去りなさい。須菩提よ、そのような思いを持ってはならない。如来が無量の相好荘厳を具足したゆえに阿耨多羅三藐三菩提を成就されたのではないと考えることを。須菩提よ、如来はまさに無量の相好荘厳を具足したがゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を成就されたのである。
衆生は智慧が浅薄であるため、一切の法を円融に見渡し理解することができず、その知見は偏狭で欠落を生じる。したがって衆生は、世尊が四相を破り、色声香味触法の相を破り、更に如来の三十二相をも破られたのを見るや、ある者はこう考えるようになる――如来が阿耨多羅三藐三菩提を成就されるのは、あたかもすべての相を具足せずとも菩提を得て仏道を成就できるかのようだ。それらの相はあってもなくても重要ではなく、相好を具足しなくても成仏できる。あるいはすべての功徳を円満せずとも成仏できる。あるいは成仏は相の上で成就するものではなく、相は重要でなくあってもなくてもよい。成仏には一切の相が必要なく、五蘊の相も三十二相も不要である。仏には五蘊の身はなく、ただ一心のみである――と。これらの思想見解もまた仏を謗るものであり、断滅空の思想に類似し、自他を害して修行は成就しない。如来はこれらの邪見に対して正すべきであり、そうして初めて思想知見が偏ることなく護持され、正真の道を行じることができるのである。
なぜ如来がすべての相好を具足せずに阿耨多羅三藐三菩提を成就できると考えることが、断滅空の思想となるのか。このような思想観念を持つと、実相心である如来蔵の存在とその働きを軽視あるいは否定することになり、如来蔵の機能作用の実有を否定することは、すなわち断滅論となるからである。菩薩がそれぞれ因地で菩薩道を行じる際、修行する一つ一つの善業はすべて種子として如来蔵に蔵され、因縁が具足する時に次第に大小の善業果報を得、成仏に至るまで果報は尽きず、しかも果報はますます殊勝となる。これらの果報には、菩薩の色身である五蘊相の荘厳と相好、菩薩が生存する環境や居住する仏国土、菩薩の座下にいるすべての弟子や眷属、菩薩のすべての三昧と無量の神通、とりわけ菩薩の無辺の智慧と徳能、そして菩薩の如来蔵に蔵された業種の清浄と転変が含まれる。
菩薩が成仏する時には、業種はすでに徹底的に転変して清浄無余となり、無明は断尽無余となる。したがって八識は四智に転換され、四智が円明となる時、一切種智が現前する。仏の四智とはすなわち仏の八識である。仏に八識がある以上、五蘊が存在する。さもなければ八識は依拠する所を失う。仏の五蘊が三十二相八十種好を具足するのは、仏が三大阿僧祇劫にわたって善法を修行し、その善業の種子がすべて如来蔵に蔵され、因縁が熟して成仏する時に種子が現前し、五蘊の相貌が極めて荘厳な相好を感得し、円満に三十二相八十種好を具足し、比類なく殊勝至極となるからである。
もし仏が成仏する際、具足した相好荘厳によって阿耨多羅三藐三菩提を成就されたのではないとするならば、甚大な過失を生じる。第一に、衆生に誤解を与え、仏が無量劫にわたって修行した善業の種子を具足していないと思わせてしまう。しかし実際には、仏は無量劫の修行過程においてすべての善業を円満に修得し、種子はことごとく仏の如来蔵に収蔵され、成仏の時に最も殊勝な相好荘厳を感得するのである。
第二に、衆生に「成仏してもなお相好荘厳を感得していないのは、おそらく仏の如来蔵に善業の種子が収蔵されていないからだ」と誤解させてしまう。しかし事実として、如来蔵が存在する限り、法爾自然に善業の種子を収蔵し、一片の漏れもないのである。
第三に、衆生に「仏も衆生も如来蔵を持たず、如来蔵は方便説に過ぎない。したがって仏の修行過程におけるすべての善業種子は収蔵されておらず、それゆえ仏が成仏する時に相好荘厳を具足しない」と誤解させてしまう。以上の過失に基づき、我々は「仏は具足相好の故をもって阿耨多羅三藐三菩提を成就された」と説くべきである。
もし仏が成仏する時に善業種子の果報を感得せず、善業種子が存在しないとするならば、それはすなわち仏に全く如来蔵が存在しないことを意味する。これは根本的で最も深刻な邪説邪見であり、根本的な断滅論の思想である。人を害する甚大なものであり、速やかにこの邪見を滅除すべきである。如来蔵が実在し、真実の機能作用を持ち、仏や菩薩が無量劫にわたり修行した善業種子を収蔵し得ると確信すべきである。将来成仏する時、これらの善業種子はすべて現前し、仏は相好荘厳という殊勝な果報を得て、阿耨多羅三藐三菩提を成就されるのである。もし如来蔵がなければ、善業種子は収蔵されず、成仏の時に善業種子も現前せず、仏は相好を具足できない。それではまだ仏ではなく、阿耨多羅三藐三菩提を得たとは言えない。
ここに至って皆が理解すべきことは、もし仏が仏道を成就する際、三十二相を具足したがゆえに阿耨多羅三藐三菩提を得たのではないと説くならば、それは如来蔵の実有を否定する断滅論であり、無量の大過失を招くということである。したがって世尊は須菩提を諭す方式をもって、間接的にすべての衆生に、断滅論の思想を持たぬよう、仏が阿耨多羅三藐三菩提を得られたのは具足相の故ではないと考えるなと諭される。こう説くべきである――仏は具足相の故をもって阿耨多羅三藐三菩提を得られた、と。これによって初めて仏説に符合し、仏法の精髓に契合し、大乗実相法に背かないのである。
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