末那識の作意は、第一にその習気の慣性に依り、頻繁に現れて比較的馴染み深い法に対して習慣的に注意を向け、作意しやすいこと。第二に末那識が目的なく作意することがあり、これは散乱・攀縁の習気によるものである。第三に末那識は興味を引く法に対して容易に作意を生じること。第四に末那識は重大かつ重要な法に対して容易に作意を生じること。第五に末那識が特定の法への貪愛によって作意を生じること。第六に末那識が瞋恚などの煩悩によって作意を生じること。第七に末那識が自己に必要な法に対して作意を生じること。第八に末那識が突然現れた法に対して容易に作意すること。など枚挙に遑がない。
末那識が作意した後、触・受・想・思の心所が現れて作用しない場合がある。思心所が現れず、末那識が何をすべきか決定しない場合がある。想心所が現れず、末那識が縁となる法を執取しない場合がある。受心所が現れず、末那識が感受しようとせず、縁となる法に興味を持たない場合がある。最初の段階では、前の心所が現れなければ、後の心所も現れる必要がなくなる。
末那識のどの特性から末那識を見つけやすいか
問:日常生活において末那識を見つけ体験できる。例えば皮膚が痒い、空腹、喉の渇き、暑さ、あるいは何かを強く行いたいという欲求があり、最終的に決定を下すのが末那識の役割だと理解する。この時、意識は意図的に実行せず、無理に先延ばしにする。この期間に末那識が何をし、何を考えているか観察する。結局のところ、末那識には実行するか否かの決定意志が存在するからである。これが末那識を探る手がかり、あるいは出処、来歴となる。このように長く続ければ、末那識を証得できるようになるだろうか。
答:末那識は刹那に決定を下す。つまり主宰することである。末那識は痒みを掻くこと、食事をすること、水を飲むこと、風に当たること、何かを行うことを決定する。何らかの行動が行われたならば、それは末那識が決定し指揮したものであり、ここに末那識を見出すことができる。もし意識が意図的に末那識の指令を実行せず、末那識の反応を観察すれば、末那識の心の動きと習気の慣性を知ることができる。意識が末那識の指令を実行しない時、同時に末那識による「暫く何々を行わない」という指令も存在する。なぜなら意識は如何なる場合も主宰できず、何を行うか行わないかは全て末那識が決定するからである。意識が末那識の行動に従いたくないということも、同様に末那識によって決定されている。
ここからまた、末那識が時に意識の決定に従うこともあると分かる。完全に独断専行ではなく、完全な独裁や軍国主義的な支配思想ではない。末那識は刹那刹那に各出来事において主宰し決定を下す。この特性から末那識の痕跡を見つけ出し、それによって末那識を証得することができるのである。
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