心法は七識心と七識の心所法を含む。総括して言えば、衆生の六根・六塵・六識からなるこれら十八界法・十二処法・五陰法である。これらの法は、すべて一真法界如来蔵の中に存在し、生滅し、変化し、作用を起こしており、すべて真心如来蔵によって出生され、変現され、執持されている。これらはすべて如来蔵から出生され変現されたものであるため、すなわち生滅のある法であり、自在でなく、自主的でない法であり、自ら主宰することができない法であり、無我性の法である。一方、有我性の法は、生滅変異することなく、自ら主宰することができ、自立的に存在することができ、他の縁を必要とせずに永遠に存続し、一切の功徳利用を円満に具足している。
無我の法はこれらの性質を備えておらず、無我法は自立的に存在できず、存在し作用するためにいくつかの外縁に依存する必要があり、また如来蔵が絶えず種子を輸送してその存在と運行を維持しなければならず、そうでなければ滅してしまう。したがって、三界世間の一切の法は、すべて生滅変異するものであり、すべて無我である。これに対し、出世間の如来蔵法は、一部分の我性を有しており、自立的に存在でき、外縁を必要とせず、出生も滅亡もなく、自在であり、自主的である。しかしながら、その中にはなお七識の染汚業種が含蔵されており、これらの業種は生滅変異するものであり、如来蔵にも変異を引き起こし、如来蔵の功徳利用にもある程度の影響を与える。
この時の如来蔵内の種子は七識の薫染を受けるため、内部の種子が薫染を受け得る以上、如来蔵全体は不変ではなく、完全に有我性とは言えない。一方、如来蔵自体にも自身の識種子流注があり、これらの識種子が刹那に生滅変異することによって、初めて如来蔵の存在と運行が維持される。したがって、如来蔵も完全に有我性ではなく、依然として無我性である。
ただ仏地の法身無垢識のみが完全に有我性であり、その時には七識の業種の生滅変異は終結し、無垢識はもはや薫染を受けず、変異せず、生滅する種子は存在しない。自心の識種子流注も停止し、刹那生滅の現象は存在しない。したがって、仏地の無垢識は完全徹底した我性であり、完全に我そのものであり、その功徳利用は完全に発揮され、もはや七識の染汚業種による制約や制限を受けない。心所法は元の五つから二十一つに変わり、したがって完全徹底究竟の我性である。
菩薩は一切法無我を証得したため、一切法の中に無我が存在することを忍び、甚深なる無生法忍の智慧を獲得し、その功徳受用は極めて多く、大きく、深く、算術や譬えでは計り知れない。菩薩はこの甚深なる唯識種智によって次第に仏地に入り、福慧ともに円満具足し、三界世間の尊ぶところとなり、人天大衆の師となり、十種の名号の功徳利益を具足する。十方世界に諸国土を建立し、成仏を示現し、無量の衆生を広く救済することができる。したがって、菩薩が一切法無我を証得することによる無生法忍智の功徳受用は、菩薩が七宝を布施する功徳や福徳をはるかに超え勝っており、その差異は比べるべくもなく、言い表しようがない。
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