原文:いかにして無縁無住とするか。いわゆる諸愛が永く尽きて離欲し、寂滅涅槃および滅尽定に入ることをいう。なぜそう言うのか。縁取というのは、諸煩悩の纏縛を指し、住というのは煩悩の随眠を指す。その処において二種ともに存在しない。それゆえに無縁無住と言うのである。これを涅槃の無縁無住という。また、想を縁と名づけ、受を住と名づける。もしある処において二種ともに存在しなければ、その処を無縁無住と言う。かくのごとく滅想受定の無縁無住を顕示するのである。今この義において意は滅定を取る。
解釈:いかにして縁取せず住着しないか。それは意根の一切の貪愛が永遠に断じ尽くされ、三界世間へのあらゆる欲望を離れ、心が寂滅して涅槃の境界に入るか、あるいは滅尽定を証得することをいう。なぜそう言うのか。縁取とは意根が諸煩悩に纏縛されることを意味し、煩悩に纏縛されない者は心が諸法に縁取しない。住着とは心に煩悩の随眠があるため、心が法に住着することを意味する。もし煩悩と煩悩随眠を断じ尽くせば、縁取せず住着しないと言うのである。これが涅槃の縁取せず住着しないという意味であり、このように滅受想定における縁取せず住着しない境界相を顕示することによって、この者が滅尽定を証取したことを説明している。
六識が滅尽し、意根がさらに受と想の二つの心所の状態を滅除することが滅尽定である。受は法に住する義であり、法境を受け入れることを住という。想は縁取の義であり、了知し執取することを想という。縁取とは煩悩の纏縛を意味し、意根が煩悩を断除すれば縁取しない。煩悩を断除することを諸愛永尽といい、諸愛永尽とは離欲である。意根が離欲すれば諸愛永尽となり、もはや縁取しない。意根が離欲し、縁取せず住着しなければ無余涅槃に入る。衆生が無余涅槃を証しないのは、意根に縁取があり、愛・欲・住着があり、法を受け法を想い、煩悩に纏縛され、心が寂浄でないことを示している。かくのごとく滅受想定において意根に縁取も住着もない状態を顕示することが、すなわち滅尽定である。
意根が色塵に縁取せず色塵に住着しなければ、眼識意識が生起しない。意根が声塵に縁取せず声塵に住着しなければ、耳識意識が生起しない。意根が香塵に縁取せず香塵に住着しなければ、鼻識意識が生起しない。意根が味塵に縁取せず味塵に住着しなければ、舌識意識が生起しない。意根が触塵に縁取せず触塵に住着しなければ、身識意識が生起しない。意根が法塵に縁取せず、独頭意識が生起せず、意根が六塵に対して受も想もなく、受覚と了知性を滅し、六塵を知ろうと欲しなければ、滅尽定の中にある。
ここにおける思惟の論理は厳密であり、隙がない。弥勒菩薩は明確に表明している:衆生の意根に欲と愛があれば、すなわち縁取と住着があるため、滅尽定を証得できず、涅槃の境界に入って解脱を得ることもできない。もし衆生の意根が欲と愛を離れれば、すなわち滅尽定を証取でき、涅槃も証取でき、これを解脱を得たと名づけるのである。
離欲とは三界世間法への一切の貪愛を離れることであり、それによって三界を離れることができる。離瞋とは瞋恚の現行煩悩を断除することであり、意識の瞋を断除するだけでなく、さらに意根の瞋を断除すべきである。弥勒菩薩は貪瞋痴が衆生の堅固な煩悩であると言い、堅固とは断除し抜くことが困難であることを意味し、煩悩が非常に深いことを示している。これはもはや単に意識の貪瞋痴を指すのではなく、主に意根の貪瞋痴を指している。意識の貪瞋痴は降伏し断除しやすく、意識は聡明で智慧があるため、仏法を学べば転じることができる。意根は聡明ではなく、法を理解しにくく、思惟することができないため、転変しにくく、貪瞋痴の煩悩が根深く固着して抜き難いのである。
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