いかにして攀縁せず住着せずというのか。いわゆる諸々の愛が永く尽き離欲し、寂滅涅槃および滅尽定を証することをいう。なぜならば、攀縁とは諸煩悩の纏縛をいい、住着とは煩悩随眠をいう。それらの処に二種ともに存在しないゆえ、無攀無住と説くのである。これを涅槃の無攀無住という。また想を攀縁と名づけ、受を住着と名づける。もしある処において二種ともに存在しなければ、すなわちその処を無攀無住と説く。かくのごとく滅想受定の無攀無住を顕示する。今この義においては滅定を意とする。
六識が滅尽し、意根がさらに受・想の二心所を滅した状態を滅尽定という。受は法を受容する住着の義、想は了知執取する攀縁の義である。攀縁とは煩悩の纏縛を離れ、意根が煩悩を断ずれば攀縁せず。諸愛永尽とは離欲をいい、意根が離欲すればすなわち無攀無住となり、無余涅槃に入る。衆生が無余涅槃を証さないのは、意根に攀縁・愛欲・住着があり、受想の法に煩悩纏縛され、心が寂浄でないためである。かくのごとく滅受想定において意根に攀縁も住着もない状態を顕示するのが滅尽定である。
意根が色塵を攀縁せず住着しなければ眼識意識は生起せず、声塵を攀縁せず住着しなければ耳識意識は生起せず、香塵を攀縁せず住着しなければ鼻識意識は生起せず、味塵を攀縁せず住着しなければ舌識意識は生起せず、触塵を攀縁せず住着しなければ身識意識は生起せず、法塵を攀縁せず独頭意識も生起せず、意根が六塵に対し受想なく、受覚と了知性を滅し、六塵を知らんと欲せざる状態が滅尽定である。
この思惟論理は厳密にして隙なし。弥勒菩薩は明確に示される:衆生の意根に欲愛あれば攀縁住着あり、滅尽定を証得できず涅槃にも入らず解脱を得られぬ。もし意根が離欲離愛すれば滅尽定を証得し涅槃に入り解脱を得る。
離欲とは三界世間法への貪愛を離れることで三界を出離し、離瞋とは瞋恚の現行煩悩を断ずること。意識の瞋のみならず意根の瞋をも断ずべし。弥勒菩薩の説く貪瞋痴は衆生の堅固なる煩悩、すなわち断除困難なる深き煩悩を指す。これは単に意識の貪瞋痴ではなく、主に意根の貪瞋痴をいう。意識の貪瞋痴は調伏断除しやすく、仏法を学べば転じ得るが、意根は愚鈍にして法を理解せず、思惟せぬゆえ転変難く、貪瞋痴煩悩が根深く抜き難いのである。
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