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日常法話

2019年05月02日    木曜日     第3開示 合計1483開示

金剛経唯識深義(一三六)

原文:何故か。須菩提よ。諸の菩薩は福徳を受けないが故である。須菩提が仏に言う。世尊よ。何故菩薩は福徳を受けないのですか。須菩提よ。菩薩の為す所の福徳は、貪り執着すべきではない。故に福徳を受けないと言うのである。

釈:世尊はさらに示された。何故そうなのか。須菩提よ、諸菩薩たちが福徳を受けないからである。須菩提が世尊に尋ねた。世尊よ、何故菩薩たちは福徳を受けないのですか。世尊は答えられた。菩薩たちが為す一切の福徳は、貪り執着すべきではない。それ故に菩薩は福徳を受けないと言うのである。

ここで言う菩薩とは、世尊が密かに指しているのは実相の境地における真実の菩薩であり、その真実の菩薩は一切の受を受けることなく、一切の法に対して捨受である。この真実の菩薩は一切の法を円満に具足し、一切の法を貪り求めない。貪求がないが故に、得る所がないのである。菩薩の五蘊が世界の七宝を布施する時、その感得する福徳の果報は菩薩の五蘊七識が得、七識が受用するのであり、真実の菩薩――如来蔵は一分一毫も得ず、一分一毫も受用しない。そして菩薩の五蘊が布施度を行じる時、七識もまた如来蔵に依止し、福徳を貪り求めないのである。

菩薩が布施する時、その心は布施度の三輪体空を観じる。所謂る三輪体空とは、真実に布施する者――我(が)なく、布施を受ける者――他(た)なく、中間に布施する物――七宝がないことである。何故布施する者がいないのか。布施する者――五蘊は如来蔵が変生したものであり、色身は如来蔵の四大種子が刹那に輸出して形成されたもので、如来蔵という黄金の一部が金の指輪である色身に打ち造られたようなものである。七識は如来蔵が刹那に輸出する識種子によって形成され、それは如来蔵という黄金の一部が金のネックレスである七識に打ち造られたようなものであり、色身と七識が合わさって五蘊を構成し、五蘊全体という金製品こそが黄金たる如来蔵である。

ここから我々は理解できる。果たして五蘊は存在するのか? 五蘊とは何ものか? 五蘊の全体は当然如来蔵であり、他には何もない。故に菩薩が布施する時、布施する菩薩の五蘊――我は存在せず、同様に布施を受ける五蘊――他も存在しない。では中間で布施される七宝はどうか? 七宝もまた四大で構成された物質色法であり、如来蔵が刹那に四大種子を輸出して形成したもので、如来蔵という黄金の一部が金のイヤリング等の七宝物に打ち造られたものである。では七宝物とは一体何か? 七宝物とは黄金たる如来蔵であり、真実の七宝は存在せず、全て如来蔵である。そして如来蔵の体もまた性空であり、実質的な相は存在せず、空で一つの相も存在しない。故に布施度全体が三輪体空であり、了不可得(得るべきものは何もない)であり、菩薩は全く執着する必要がないのである。

同様に、菩薩が得る福徳もまた空である。まず菩薩の布施行は業種として如来蔵に存在し、縁が熟した時、如来蔵が再び業種を輸出し、菩薩の福徳を実現する。その福徳が実現する形式は、物質色法と七識心所法の形で現れる。物質色法は金銭、財産、権勢、地位、家族眷属等の形で現れ、これらの色法は全て如来蔵が四大種子を輸出して形成したもので、本質は全て如来蔵であり、真実の物質色法は存在しない。物質色法と如来蔵は一でも異でもない。故に真実の福報は得られず、全て如来蔵が自心で自心を取るのであり、非幻が幻法となるのである。

これらの物質色法の福報を享受する時は、七識の覚知心が受用し、七識の受心所が領受し、感受し、享受する。受心所は快適さ、楽しさ、誇り、傲慢さ、自らの喜びを感じる。そして受心所法は七識に随順して存在し、七識の助伴である。七識が現れると六塵に対境し、受心所の運作が生じる。七識は如来蔵が識種子を輸出して形成したもので、本来は如来蔵であり、如来蔵と一でも異でもない。七識の心体は了不可得であるから、七識の覚受も了不可得である。故に菩薩の福徳が実現する時、福徳及び福徳の享受は何ら実質がなく、本質は全て如来蔵である。

菩薩たちがこの智慧の境地を証得すれば、福徳を再び貪り求めず、福徳を享受しようとする心も起こさない。そして修得した福徳を全て阿耨多羅三藐三菩提に回向する。菩薩の修行は早く仏道を成就する為のものであり、世俗法の福徳享受の為に布施度を行じることはない。このようにして菩薩の修行は内心空寂清浄に達し、一法にも執着せず、心空にして及第帰し、無上の仏果を証得し、菩提大道を円満に成就するのである。

——生如法師の開示
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