あらゆる段階の悟りの証果は、すべて三昧であるため、必ず禅定の境地と智慧の境地を具えなければなりません。どちらが欠けてもならないのです。
かつて私は人と話しながら僧衣を縫っていた時、ふと気付くと僧衣を反対に縫い付けていました。針仕事のような単純な作業でさえ、ほとんど思考を要しないにもかかわらず、注意力が散漫になると誤りを犯します。それでは我見を断ち心を明らかにするという天にも勝る大事業が、なぜ禅定なしに成就できるのでしょうか。どうしてそれほど容易に成し得るのでしょうか。
多忙な時、私の心は不安定になりがちです。そのような状態で原稿を整理すると、思考は乱れて不鮮明になります。私は静座して心を落ち着かせた後でなければ、原稿の校閲に取り掛かれません。ましてや我見を断ち心を明らかにするという生死の大事、無量劫にわたる生生世世を決する重大事が、禅定を用いずにどうして解決できましょうか。
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