万法は唯だ心の造る所なり。この心とは何を指すのか。必ずや如来蔵を指すのであり、これを除いては万法を生み出すことはできない。なぜなら、七識心そのものは自在ではなく、自主性がなく、生滅変異するものであり、実体がないため、種子を宿すこともできない。万法を創造するための七大種子であれ業種であれ、七識心の中には存在せず、そうであれば七識は何らかの法を生み出すことができず、ただ如来蔵が生み出した法を心に投影し、影を落とし、影を顕現することしかできず、それ以外には無力である。
滅尽定においては六識が存在しないが、勝義根の中の相分は誰が造り出したのか。眠っている時には六識がないが、六塵境界は誰が造り出したのか。気絶して六識がない時、六塵境界は誰が造り出したのか。これらは全て如来蔵が業種に随順して造り出したものであり、意根が配合の役割を果たす。なぜなら意根が身を執持するため、五根は機能し、如来蔵は五根を通じて五塵の影を伝達するのである。六識は造り出すことができない。なぜなら六識がないからである。「一切法唯心造」と「万法唯識」という二つの言葉には違いがある。「万法唯識」とは、万法は八つの識を通じて顕現されるという意味であり、凡夫の五陰七識のうち一つの識が欠けると、ある種類の法は顕現されなくなるが、その法は客観的には依然として存在しうるのである。
唯心宗とは、一切の法は唯だ如来蔵から出生するということであり、七つの識も如来蔵に含まれ、如来蔵の心体から出生した法である。唯識宗は唯だ八つの識を説き、七つの識は如来蔵に帰属する。如来蔵から演繹されない法門は一つもなく、如来蔵を離れて成立しうる法門もない。一切の法門は如来蔵の中の法門であり、全て如来蔵の分枝である。空門とは如来蔵の解脱法門であり、空宗とは如来蔵の空性宗である。
唯だ唯識種智を具えた地上の菩薩のみが観察し得るのである。一切の法は唯だ如来蔵によって造られ、一切の法は真如であるということを。その他の者は観察することができない。もし漏れた部分があり、如来蔵によって造られたものでないならば、それは如来蔵の心の外に法が存在しうるということになる。このような見解は、外道の見解である。地前の菩薩でさえ、多少の外道的思想を免れないため、如来の家に入らず、仏の実子とはならない。内道と外道は、ただ一念の差に過ぎない。
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