無為法とは、第八識を指す。有為法に依らない相対的な仮立法ではなく、真実の法であり、本来から存在し、生滅せず、仮の法ではない。第八識は五蘊七識の仮の我に対して真我と説かれるが、凡夫や菩薩の位ではなお生滅の種子が存在し、完全な我とは言えない。仏地に至って染汚の生滅変異の種子が消滅した時、常楽我淨の真実の我となる。
根本のところで重大な誤りがあれば、枝葉の正誤は問題にならない。悟りを開かずに唯識を講ずるのは笑い話であり、悟りの智慧があっても唯識を十分に説くことは難しい。唯識の修証がなければどうして唯識を講じられようか。現代の世に流通する唯識説が後世に伝わった時、もしその提唱者に名声や権威があれば、後世の人々はまたもや五体投地して崇拝し、いかに多くの真摯に修行する仏弟子たちを誤らせるか分かったものではない。世の人は往々にして名声ある高僧の著作は全て正しく誤りがなく、唯識を講じる者は皆修証を具えた者であると誤解している。衆生の無知はここにあり、救いようがない。
もしこのような唯識を宣伝し修学するならば、宣伝すればするほど罪責は大きく、学べば学ぶほど解脱から遠ざかる。皆様はご自重ください。修行の道は険しく、様々な落とし穴に遭遇する。福徳を積み、智慧を増すことが最も肝要である。後世になれば、これらの説法は皆古文となり、人は往々にして古を崇める。もしこのような誤った古文を崇拝すれば、人を害することにならないか?世の中に何人が慧眼を開き、古文の正誤是非を弁別できようか。
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