「また、あらゆる時、あらゆる場所において、智慧の照らすところ滞りなく、念念円通にして、一法も障害となるものを見ず、いまだかつて一刹那のうちにも暫くも間断させたことがあるだろうか?」『宗鏡録』における悟りの検証10基準の一つである。この言葉をどう理解すべきか。
こう理解すべきである。悟りを開いた後の菩薩は、五陰世間における一切の造作の中で、あらゆる時、あらゆる法において、それが第八識の功能作用であると観察でき、五陰自身の単独の作用はなく、すべてが真如自性の起用であり、心が五陰世間の仮相に落ち込むことはない。この智慧の程度は相当に深く、初地以上の無生法忍に達し、一真法界を分証し、世出世間の一切の法がすべて第八識の起用であり、すべてが第八識の作用であることを証得した。甚深の唯識種智がなければ、これほど微細に、周到に、深く観察することは不可能であり、これが真の真如三昧である。諸仏は完全に真如三昧を証得しているが、地上の菩薩は真如三昧を分証するに過ぎず、完全な真如三昧には達しない。なぜなら、まだ多くの法を証得しておらず、ある法は依然として世間相に落ちているからである。
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