七つの識にはそれぞれ対応する境界に対する受がある。前五識は五塵の境界にも受を持ち、この種の受は往々にして情緒的でなく、比較的純粋な感受であり、色・声・香・味・触の境界を純粋に領受する。意識の受は当初は純粋な領受・領納であるが、了知した後には情緒的な受が伴い、喜怒哀楽が全て表れ、心理活動は非常に多く複雑である。
意根も受を持ち、六識がそれぞれ了知した内容は全て意根に伝えられ、意根は六識から伝えられた詳細な情報を領受し、それによって自らの感受を持つ。意根はまた第八識に依拠して、第八識が縁とする一切法の影像を見ることができ、一切法を全て了別できるため、意識によって了知されない様々な受が存在する。例えば、第八識に依って自己または親人が事故に遭うことを了別すると、心の中で焦り、恐れ、心配、不安、驚愕、落ち着きのなさが生じ、様々な苦受が現れる。そのため六識に常識に反する不可解な行動を促し、意識も驚愕や不安などの情緒を表すが、なぜそうなるかは分からない。もし意根が近い将来に吉事が起こると了別すれば、内心は喜びや楽しみなどの楽受が生じ、意識は理由もなく快楽を感じ、楽受が現れる。
意根が六識の了別した状況に依って現れる受は、例えば昼間に経験した事柄を夜になって暇になり、意識が仔細に回想分析すると、表面的なものではないと知る。すると意識は考えれば考えるほど怒りが増し、これは意根が知っても怒ることであり、それによって心臓の不快感を覚え、顔色がますます悪くなったり、新たな決定を下したりする。
ある者は意根の受は単純な捨受であり、苦楽の受はないと言う。しかしもし意根に苦楽の受がなく捨受のみならば、第八識のように一切法を容認でき、一切法に対して興味も持たず避けもせず排斥もせず、身心を駆って喜怒哀楽などの情緒的な行動を起こさず、過剰な行動や情緒も現れず、身心は平淡で穏やかで安定しているはずである。
実際に見ると意根はそうではなく、特に煩悩を降伏せず、修養のない者ほど情緒的であり、多くの場合意識すらなぜそうなるか分からない。林黛玉のように憂鬱な者や阿修羅のように暴躁な者は、意根に苦受があり耐えられない結果であり、意根の習気が強すぎて、意識ではこれらの情緒の発生を制御し難い。これは意根が捨受でないことを示しており、苦受によって意根は相応の煩悩を持ち、楽受によっても相応の煩悩を持つためである。
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