衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年05月04日    土曜日     第2開示 合計1490開示

金剛経唯識深義(一三八)

原文:須菩提よ。もし人が言うならば、如来は来るが如く、去るが如く、坐するが如く、臥するが如くであると。この人は私の説いた意義を理解していない。なぜならば、如来というものは、来るところなく、また去るところもない。ゆえに如来と名づけるのである。

釈:世尊は言われた:須菩提よ、もし人が、如来はこのように来り、このように去り、このように坐し、このように臥すと言い、これらの表相において行き来し止まる如来を見るならば、この人は私が長い間説き示してきた仏法の大義を真に理解しておらず、したがって如来の表相に迷って真の如来を見ない。なぜ私がこう言うのか。真の如来は、来るところとなるべき処もなく、去るところとなるべき処もないからである。来もせず去らず、生ぜず滅せざる者、これを真の如来と名づけるのである。

世尊はなんと慈悲深いことか、衆生のために、ぼろぼろの汚れた衣をまとい、尊い身をかがめてこの濁悪の世間に来られ、衆生に仏の知見を示し、経を説き法を語り、疲れを知らなかった。世尊はここで、繰り返し画竜点睛を施し、口を酸っぱくして説き、眉はもう地面に届くほど長く伸び、袈裟の端は泥水にずっと浸かっていたが、それでも衆生を邪見の泥沼から引き出し、仏の知見を悟らせ、そして仏と同じ見方と行いをさせ、二度と広野の小道や人里離れた山奥、険しい場所を歩かせないようにするためであった。

衆生の相に執着する習性はすでに骨の髄まで徹しており、邪見の毒刺は実に抜き難い。やむなく世尊はたびたび相を破りまた破り、種々の譬えや言葉をもって、衆生に何一つ相のない実相の心を示された。しかしそれでもなお、非常に多くの人々が、真実の無相の如来を見ず、ただ行き来し、来たり去り止まる有相の如来だけを見ている。しかし有相の如来の、その来去の相、坐臥の相は、消失して滅び見えなくなるだろうか。来去の相、坐臥の相が消失した後、またどこで如来を見るのだろうか。その来去の相、坐臥の相は、どこから来て、どこに滅び去るのだろうか。またなぜ来去があり、坐臥があるのだろうか。心ある人はここで大きく疑問符を付け、深く疑い、見過ごしてはならない。

如来の来相は、五蘊の色身によって現れ、五蘊の七識心によって顕現する。本来は五蘊中の行蘊である。もし五蘊七識がなければ、来相もなく、衆生に見せることもない。そしてこの来相は、来る前に、どこにあったのか。何によって来たのか。この来相は生滅の法であるから、生滅の法はすべて因縁によって生じる。来相には様々な縁の集まりがあり、因によって生じる。因と縁があって、来相が現前する。衆生はそれを見て、ただ来相だけを見て、来相がどこから来たのかを知らず、来相の因を知らない。これが迷える人が相に執着し、真理を識らないことである。衆生は相に執着して理に迷うため、塵に合して覚に背き、したがって塵労を発し、世間相は絶えず、生死は絶えない。生死の相を出離したいならば、どうすればよいか。もちろん起相の因を求め、真如の理を識り、惑業を除き、本来に回帰しなければならない。

如来の去相は、五蘊によって現れ、七識によって顕現する。本来は五蘊中の行蘊である。五蘊七識は何によって顕現するのか。去る前に、来があり住がある。来・住の前には因がある。去る時も因を離れず去る。そうでなければ去ることができない。去った後は、その相は跡形もなくなるが、去る因は滅びない。それゆえに絶えず去り、再び絶えず来ることができ、生住異滅し、このように循環して止まない。これが生気溢れる様であり、生の縁が至る所にある様は、まるで素晴らしい春のようである。如来の坐相と臥相も、本来は五蘊中の行蘊であり、色身と七識によって現れる。色身と七識にもまたその現相の因がある。この因によって、相は生じ滅びる。衆生はただ相と相の生滅だけを見て、相が生滅する起因を決して見ず、表相に迷って真理を識らない。それゆえに生々不已、死死不断し、転々流浪し、迷路から戻らないのである。

——生如法師の開示
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金剛経唯識深義(一三九)

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