原文:須菩提よ。もし人が言うならば、如来は来たるが如く、去るが如く、坐するが如く、臥すが如くと。この人は我の説く所の義を解せざるなり。何を以っての故にか。如来というものは、来る所なく、また去る所なし。故に如来と名づく。
釈:世尊は説かれた。須菩提よ、もし人が「如来はこのように来たり、このように去り、このように坐し、このように臥す」と、行住坐臥の相において如来を見るならば、この人は私が長らく説き示してきた仏法の大義を真に理解せず、如来の外相に迷って真実の如来を見ないのである。なぜそう言うのか。真実の如来には来るべき処もなく、去るべき処もない。来も去りもなく、生も滅もない者を、真の如来と名づけるのである。
世尊はなんと慈悲深いことか。衆生のために汚れた衣をまとい、この濁悪の世に降りて、衆生に仏の知見を開示し、経を説き法を語り、疲れを知らずに教え導かれた。世尊は繰り返し画竜点睛の教えを説き、口を酸くして、眉はすでに地に垂れ、袈裟の裾は泥水に濡れながらも、衆生を邪見の泥沼から引き上げ、仏の知見を悟らせ、仏と共に見、共に行じ、再び荒野の細道や険しい山奥をさまようことのないよう導かれた。
衆生の相に執着する習気はすでに骨髄に徹し、邪見の毒刺はまことに抜き難い。やむなく世尊は相を破り続け、種々の譬喩と言葉をもって、いささかも相なき実相の心を開示された。しかしなお多くの者が、真実の無相の如来を見ず、往き来し行住坐臥する有相の如来のみを見ている。しかし有相の如来の来去相・坐臥相は、消え去ることはないだろうか。来去相・坐臥相が消えた後、どこに如来を見いだすのか。その来去相・坐臥相はどこから来て、どこへ滅するのか。なぜ来去があり坐臥があるのか。心ある者はここに大きな疑問符を掲げ、深く疑念を抱き、見過ごしてはならない。
如来の来相は五蘊の色身によって現れ、五蘊七識の心によって顕現する。本来は五蘊中の行蘊に依るもので、五蘊七識がなければ衆生が目にする来相もない。この来相は、来る以前にはどこにあったのか。何によって来るのか。この来相は生滅法であり、生滅法は全て因縁によって生じる。来相には様々な縁が集まり、因によって生じる。衆生は来相を見てただ相に執着し、来相の起因を知らず、真理を見失う。衆生が相に迷い理に背く故に、塵労を発し世間相は絶えず、生滅は尽きない。生滅相を超えるにはどうすべきか。もちろん相を起こす因を求め、真如の理を識り、惑業を断ち切り、本来に帰るべきである。
如来の去相も五蘊によって現れ、七識によって顕現する。本来は五蘊中の行蘊に依る。五蘊七識は何に依って現れるのか。去る前には来と住があり、来住の前には因がある。去る時も因を離れず、さもなければ去ることができない。去った後はその相は跡形もなく、去る因は滅びず、それ故に絶えず去り再び来る。生住異滅はこのように循環して止まず、これが生気溢れる縁起の世界である。如来の坐相と臥相も、本来五蘊中の行蘊に依り、色身と七識によって現れる。色身と七識もまた相を現す因を持つ。この因によって相は生滅し、衆生は相とその生滅のみを見て、相生滅の起因を見ず、外相に迷って真理を識らない。それ故に生々不已、死死不断に流転し、迷路から帰ることができないのである。
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