衆生は迷いを積み重ねて戻り難く、やむなく世尊のご老人が八千回もこの娑婆世界においでになり、片手を天に指し、片手を地に指して衆生に示された:天上天下、唯我独尊!如来の智慧と徳相を大いに顕わし、衆生の執着を解きほぐし、塵労と煩悩の垢を洗い流された。大慈の父でなければ、誰がこれほどできようか!我らが如来の孝順の子であるならば、世尊が天地を指し示された時に、右肩をあらわにし、右膝を地につけ、両手を合わせて「我が仏よ、如来至尊、今こそ真実の如来を拝見いたしました」と称えるべきである。これより次第に仏業を継承し、仏に代わって教えを宣べ、衆生を導き、迷いを去って智慧を顕わし、仏の知見に入ることができるようになる。もしこのような孝順の子が多くいれば、我が仏の事業は後継者に恵まれ、仏法は光り輝き、慈航は普く渡し、普天同慶、十方ともに一切智の海に入るのである。では、衆生はどうすれば真理を識得できるのか?世尊はさらに示された:如来とは、所従来もなく、所去もない、故に如来と名づく。所従来もないとは、如来が来るべき処という場所が存在しない、つまり来処がないということである。来処はないが、如来は畢竟として時処に現れ、身がなくとも隠れることはない。来処なき如来はすなわち不生であり、本来より存在し、他縁に依らず自在自主である、この如来こそ真の如来である。所去もないとは、「所」は処所、去るべき処所がない、つまり不滅である。不滅とは時処に存在し、時処に顕現し、時処に作用する、この如来こそ真の如来である。真の如来は来去の相なくして来来去去し、来来去去しながらも湛然として動かず、威威堂堂、如如として来たり、如如として去り、来もせず去りもせず、生もせず滅もせぬ。
衆生に真の如来を識得させるため、世尊は文殊と共に比丘に真実の如来の義を演じて示された。ある時、比丘たちが講堂に着席すると、世尊は講堂の扉を開け、五蘊の三十二相が大衆の前に赫々と顕現した。世尊は鵞王の歩みで徐徐に法座の前に進み、ゆっくりと結跏趺坐した。世尊が坐を定められると、文殊菩薩は附尺を手に講卓を一拍し「世尊の説法は終わった!」と宣言した。比丘たちはまさに世尊の説法を聴こうとしていたところ、突然文殊菩薩のこの宣言を聞き、呆然として何の道理か分からなかった。世尊は比丘たちの呆け様を顧みず、ゆっくりと法座から立ち上がり、静かにまっすぐに扉に向かい、扉を開けて出て行かれた。五蘊の三十二相はここに消失した。
諸君よ、応身仏の如来相はすでにご覧になった。三十二相八十種好は威威堂堂、巍巍煌煌、実に荘厳である。しかしこれらの相は娑婆世界にわずか八十年留まっただけで消え失せた。これは決して真の如来ではない。では真の如来はどこにいるのか?どれなのか?実は法身如来は応身如来から一瞬も離れたことはない。世尊が扉を押して入った刹那から扉を押して出るまでの全過程において、法身如来はその無面目の面目をもって常に顕現していた。眼の鋭い者は直ちに見抜き、慧眼で五蘊の背後にある「彼」を識得する。これを識得することこそ、なんと痛快なことか!なんと軽やかなことか!皆さん、世尊の五蘊の仮相を捨て去り、捨て去れない、離れられない、決して生滅せず、来も去りもしない、あの法身真如来を見ようと試みられよ。良馬は鞭影を見て行く。智者は五蘊の影を見て真人を識得する。真人はどこにいるのか?喝!ここにある。
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