衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年05月04日    土曜日     第6開示 合計1494開示

菩提心を忘失し、諸善法を修めれば、即ち魔業となるとは、いかに理解すべきか。

菩提心には二種類あります。一つは先天的で不生不滅の菩提心であり、一切の衆生と一切の善法の依り所となるもので、これは自性本心であり、有為にして無為である第八識を指します。もう一つは後天的に諸々の善法を修することによって生じる、自らを度し他を度そうとする菩提心であり、七識の心が菩提自性に依り所を置いて発するもので、生滅性を有し、有為から次第に無為へと向かうものです。

衆生が最初に菩提心を発起する時は、往々にして純粋で真摯なものです。しかし長い修道の過程において、自らの最初の発心を忘れてしまう可能性があります。諸々の善法を修していても、その目的が純粋ではなくなり、私心や私欲が混じり、自性菩提と最初の発心に背いてしまうのです。これらの私心や私欲は、目的が個人の利益に向けられており、無私に仏教のため、衆生のためではなく、自己の私利が仏教全体や衆生の利益よりも優先される形で現れます。

このような私心によって修行される、衆生を度す善法は、魔の性質を含むことになります。なぜなら魔王や魔民は強い貪欲を有しており、彼らが善事を行わないわけではないのですが、善事を行う目的が純粋でなく、利益が個人にあるため、結果は往々にして不善となり、善の表面に悪の実質が隠れているからです。したがって、個人や小集団の利益を目的とする善業は、全て魔業なのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経唯識深義(一四一)

次へ 次へ

意根直証の原理

ページトップへ戻る