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日常法話

2019年05月04日    土曜日     第7開示 合計1495開示

意根直証の原理

第一章 意根による親証の原理

二十四、意根の無我とは、第一に意根を実在と認めないこと、第二に五蘊を実在あるいは自己と認めないこと、第三に六識の機能を実在あるいは意根自身の機能と認めないこと、第四に第八識の機能を意根自身の機能と認めないことである。

人我執を断つとき、意根は五蘊十八界が自己ではないことを知らねばならず、次第に五蘊十八界への執着を断ち始め、五蘊のこの機能も自己ではなく、あの機能も自己ではなく、五蘊のすべての機能が自己ではないと観察し始める。こうして少しずつ意根の五蘊への執着性を断除でき、四果の阿羅漢となる。意根が五蘊への執着性を断除した後、初歩的な無漏に達すると、その遍計所執性は一部消滅する。四果阿羅漢以前は、意根の自我への執着性をずっと伏せており、初果を得て初果人となった時から少しずつ伏せ始め、四果阿羅漢に至って我執を断じ尽くすのである。

初地の菩薩は一分一分に法我執を断ち始める。法我執を断つには無生法忍の智慧を得て、一切の法において無我性を証得し、一切の法に自主性がなく、すべて第八識が幻化したものであることを証得せねばならない。一切の法には確かに一個の我が存在せず、どれも自己ではないと観察する。意根はこの一切の法が自己ではなく、自己の所有するものでもないと認め、こうして少しずつ一切の法への執取性を断除できるようになる。意根が徹底的に無我に達し、一切の法に執着せず、内心が空々浄々となって初めて仏に成れるのである。

二十五、すべての財産は第八識というコンピューターの中に存在しており、意根が働かなければ財産は顕現しない。意根が財産を取ろうとし、三界の世間法を求め、成仏を望めば、第八識は一切の財産を輸送して意根に供給し、意根は六識と五蘊身を通じて享受する。意根は五蘊身と六識を自己と見なし、自己の用いる道具と見なす。それはあたかも身体の手足が身体のために用いられるようなものである。一切の法はすべて意根のために用いられるのであり、第八識は用いない。意根が一切の法に執着し、一切の法を必要とするのである。意根こそが最大の我であり、意根が自己を我と見なさず、五蘊身と六識を我あるいは我のものと見なさず、一切の法を我あるいは我のものと見なさなければ、万事大吉、我執と法執を断じ尽くし、成仏に余裕が生まれる。

二十六、頓悟とは、一方では意根が頓時に証悟し、その後意識に知らせることであり、意識が少しずつ思惟して導き出すものではない。他方では、意識が絶えず参究し、少しずつ思惟して結果を絶えず意根に浸透させ、念念に意根の心中に入ることであり、漸進的な過程と心理的準備があり、最後に意根が確認し、意識も決定する。そして欣喜雀躍し、喜びの極みに涙するのである。

どうすれば意根が意識の考えを認めるようになるのか。真に心を静め、深く細やかに思考して初めて、意識は効果的に意根を熏染し、意根を説得する効果を達成できる。心を静めて初めて意根が功用を発揮できる。禅定が現前して初めて意根が功用を発揮し、意識と共に観行参究できる。そうでなければ禅定がなく、意根が忙乱し、意識も忙乱して、細やかに思惟できず、意根を熏染できず、詳細な情報やデータを意根に伝えられない。すると意根は思量考究できず、参究できず、その有するべき功用を発揮できず、道理を明らかにできず、意識が思惟した内容を確認し実証できなくなる。

実証した後で初めて無明を破り、一切の法を変えられる。今はすべて意識心の解に過ぎない。もし意根が証得しなければ、世間の事であれ仏法の事であれ、どれほど感慨にふけっても、感慨が億万に及んでも、後には感慨しなくなり、元通りになってしまう。もし意根が証得しなければ、身口意の行いを転換できず、解脱の功徳受用も得られない。

二十七、初果に相応する我見を断つすべての観行は、証果していない者でも理解できる。多くの人は理解した後、自分が観行に至ったと思い込み、我見を断ったと考える。それゆえ一部の人は無我の理を理解することが即ち我見を断つことであり、自分が証果したと確認してしまう。これは自分を盲信しすぎており、大妄語を犯すことになり、その結果は甚だ深刻である。誰もが自信を持っているが、結果は盲信であり、完全に内心の我が悪さをしており、我執が重い表れである。

無我を理解することは意識の理解に過ぎず、解悟ですらない。意根の証悟とはまだ大きな隔たりがある。衆生はこのように愚かであり、度化しにくい。真実を言っても聞かず、高く掲げて褒められて初めて喜ぶ。ある者は、自分が八果だと告げられると非常に喜び、真実を言うと、いかなる手段を用いても聞こうとしない。ある者は貪瞋痴のすべてが甚だ重く、凡夫よりも重いのに、自分は二果だと主張する。衆生はみな自らを高く大きく見たがるので、どうしようもない。

その他のいかなる法も、意根が証得する必要があり、意識が理解しただけでは不十分である。各種の観行の成就、すなわち証得には、すべて意根の参与があり、それは意根の証である。内心深く真に理解し、深く感得することは、ある程度の証得であり、事の真相を真に認め、身心の状態に変化を促すことが、意根の一定の証得である。既然それを「ある程度の証得」と呼ぶなら、必ずしも完全徹底した証得ではない。ゆえに証得にも程度とレベルの違いがある。意根を滅してしまえば成仏できず、意根の無明を破って初めて識を転じて智とし、意根を永遠に滅してはならない。五蘊があって初めて成仏できるのである。

二十八、唯識の修証において、意根が核心である。如来蔵は誰の指図も必要とせず、変える必要もない。ただ意根に心を用いればよく、意根を変えれば人を変えられ、凡夫から果地の仏となる。また意根を変えて初めて一切の法を変えられる。

すべての無明は意根の中にあり、意根の無明を破れば成仏し、意根を変えれば種子を変え、種子が変われば成仏する。意識の無明はすべて意根から来ており、意根に依って初めて意識と意識の無明がある。意識と意識の無明は容易に断除でき、決して難しいことではない。難しいのは意根である。ゆえに意根の心所は意識よりずっと少なくなるべきではなく、意識の心所法とほぼ同程度であるべきだ。禅定力と観察力がともに甚だ不足していれば、意根を証得できず、ましてや意根の心所法の運行や、意根が如何なる法における運行状態を観察できず、知らず証得しない。それゆえ軽々しく意根の各種の心行を否定し、どうしても意識の心行だと主張してしまうのである。

もし意根が法を証得しなければ、無明を破れず、意識の無明を破っても無駄で、何も変えられない。今のところ、意識で如何なる工夫をしても無駄であり、一切の法の修証は意根に触れて初めて根本問題を解決できる。この考え方をはっきり理解し、仏法の修証についてはもう何も言うことはないはずだ。

二十九、静坐して仏法を思惟観行し、精力がますます湧き、次第に昏沈から脱却する感覚があれば、それは好ましい現象であり、止観双運が効果を上げていることを示す。座を下りた後もなお思惟観行を継続できれば、観行はすでに意根を熏染することに成功し、意根が精進して用功し始めたことを示す。修行が意根を熏染すれば、必ず禅定の功徳がある。

一切の修行は、禅定と意根に関われば結果が生まれ、根本に落ち着く。もし修行に禅定がなければ、意根と結びつけられず、意根を熏染せず、意根に落ち着かなければ、精進できず、七覚分が現前せず、仏法を証得できない。

世間・出世間の法の鍵はすべて意根にある。それゆえ意根を除いては、実に語るべきことはない。一切の法の究竟・実質・根本は如来蔵と意根である。意識や他のことを語っても根本に触れられず、靴の上から痒いところを掻くようなもので、根本問題を解決しない。修行とは意根において修めることであり、意識だけを修めても浅はかで、欲界を出離できず、三悪道から脱却できなければ、魔王の支配下に置かれ続ける。

禅定と意根の法は、魔王が最も忌み恐れる法である。彼は学仏者が禅定を得て欲界を出離することを恐れ、学仏者が意根を修めて仏法を証得し、彼の支配から脱却することを恐れる。それゆえ彼は手段を尽くして学仏者が禅定を修めることを阻み、学仏者が法を証得することを妨げる。我々が解脱を得て欲界の魔に支配されないためには、精進して禅定を修め出し、努力して意根を修行し、一日も早く菩提を証得し、解脱の道に進まねばならない。

三十、意根もまた意識の不正思惟の影響や熏染を受け、誤った決断を下すことがある。無始劫以来、意識は常に意図的・無意識的に意根を欺き、五蘊が即ち自己であり、一切の法はすべて自己のものであり、五蘊の世間は美しく楽しいので、追求を捨てるべきではないと意根に告げてきた。意識は邪師の役割を果たし、それゆえ意根は世俗の五欲に貪染し、五蘊の自己に執着する。我見を断つ前後から、意識は意根の良き師友としての役割を果たし始め、自ら邪を改めて正に帰した後、意根が邪を改めて正に帰するのを助け、共に煩悩を降伏し無明を断除し、共に識を転じて智とし、手を携えて前進するのである。

三十一、意識が滅した後、残るものこそが衆生の考える我であり、この我が生死輪廻の真の根源であり、一切の煩悩と無明を具足している。この我があるゆえに、後世の無量劫の生死苦報と苦受があり、後世の一切の善悪業行、および各種の因縁果報がある。

この我がどのような姿であるか、私がそのままの姿である。この我に無明がなければ、私に無明はない。この我に煩悩がなければ、私に煩悩はない。無明のない我をもって胎に投じれば、私は仏となる。煩悩のない我をもって胎に投じれば、私は阿羅漢となり、入地の菩薩となる。一切の煩悩を具足した我をもって胎に投じれば、私は完全な凡夫となる。善法の多いこの我をもって胎に投じれば、私は善人となる。悪法の多い我をもって輪廻すれば、私は悪人となる。

この我の原貌がどのような姿であるか、私がそのままの姿である。どうかこの我に様々な煩悩がなく、それによって多くの劫の苦しい修行が省かれますように。どうかこの我が善多く悪少なく、私も善報多く悪報少なくなりますように。この我が善法なく善法と相応しないことを望まず、この我が一切の善法を具足することを望む。

この我に我見がないことを願い、この我に我執がないことを願い、この我に我慢がないことを願い、この我に貪瞋痴がないことを願い、この我が独り善がりでないことを願い、この我がすべての無明を除去することを願い、この我が一切の善法を具足することを願い、この我が一切の福徳を具足することを願い、この我の智慧が広大であることを願い、この我が徹底的に識を転じて智とすることを願い、この我が慈悲喜捨を具足することを願い、この我の願力が広大であることを願い、この我が一切の衆生を悲憫し一人も見捨てないことを願い、この我が徹底的に無我であることを願い、この我が無量の徳能を具足することを願い、この我がすべての衆生の依り所となることを願う。

要するに、この我が私の望む通り、一切の悪を断ち一切の善を具足することを願う。それゆえ学仏修行とはこの我において力を注ぎ、この我に一切の法を証得させ一切の法を変えさせることであり、意識に力を注いでも無駄である。

三十二、意識が思惟する内容は何の法に属するのか?どこから生じるのか?意識が思惟する法は如来蔵の中から来ており、まさに意根が攀縁し出したものであり、意根によって引き起こされ、意根によって推し進められる。それゆえ意根が先に法を縁とし、意識が後に法を縁とする。そうであれば、意根が先に法を証得し、意識が後に法を証得する可能性がある。意識が法を思惟した後は、刹那刹那に意根に伝え入れねばならず、意根が再び自らの思量を起こし、思量が通達した後が証得である。

意識が五蘊が具体的に如何に虚妄であるかを思惟し、その内容が如何に出現するかを思惟する。意根は五蘊が如何に虚妄であるかを理解したがり、第八識は意根に随順して意識を出生させる。意識は思惟して証拠を探し、一つ一つの証拠を見つけて意根に報告し、意根の審査に委ねる。意識自身は最終的な確定ができず、必ず意根によって確定されねばならない。意根は意識の提示した証拠を審査し、自らの推敲と思量考証を経て結論を導き出し、五蘊は確かに虚妄無我であり、疑問なく確定していると認めれば、それが証得である。意根は確定した情報を再び意識に告げ、意識の心も落ち着き、確信を持って疑いなくなる。

意根は報告を得た後、如何に運作する必要があるのか?意根は必ず自らの思惟・籌量・考証を起こしてからでなければ、最終決定を下せない。また時には、意識が結論を導き出せず、思惟が通達していない内容を意根に委ね、意根が参究参研して最終結論を導き出し、その後意識に知らせることもある。凡そ意根が自ら考量した後に導き出した結論はすべて確信して疑わず、非常に堅固である。

三十三、禅定に入って自己が消失するのを恐れ、戻れなくなるのを恐れるのは、すべて意根が恐れているからである。意根が五蘊身を自己と見なし、五蘊身の機能作用に執着するゆえに、五蘊の自己が消失するのを恐れるのである。この状況を変えるには、意識が理をもって意根を説得し、自らの五蘊身に執着せず、五蘊身が真実でないと理解させねばならない。ゆえに我見を断つには意根が断たねばならず、煩悩を断つには意根が断たねばならず、無明を断つには意根が断たねばならない。一切の煩悩は意根であり、解脱とは意根の問題を解決することである。

多くの事例がこの問題を説明している。禅定力が不足し、智慧力が不足すれば、この点を認識できない。あの意根は鈍くて鈍いのに、意識を守ろうとし、意根に火がついていることにさえ気づかず、意識の火を消そうとする。家財がすべて焼け落ちても、周辺をうろうろしている。衆生はこのように智慧が欠如しているのである。

三十四、六識がすべて滅して存在しなくなった後、この時なお我がある。それが意根である。意根が我見を断っていなければ、なお我見が存在し、依然として我見のある凡夫である。この時の我見は、覚醒時の我見と同様であり、差異はない。意根に我見が存在するゆえに、私は見聞覚知がなく、六塵を覚知できず、六塵において作為できないと考える。そこで六塵の境界を了別しようと心を起こす。如来蔵がこれに配合して六識を出生させ、見聞覚知が現前し、五蘊が出現する。意根は六塵境界を執取し、見聞覚知を執取し、五蘊の造作を執取できるようになり、三界の世間に繋縛され、解脱できないのである。

それゆえ我見を断除するには、必ず意根にも同時に断除させねばならない。意根に我見がなくなった後、各種の執取性が軽減され、心が解放され、解脱の智慧を得られる。死後の我見に至るまで、生きている時と同じである。それゆえ我見によって五蘊身を執取し、中陰身および後世の五蘊身が絶えず出生し、再び出生する時の我見も前世と同じであり、依然として凡夫の身であり、意根も相変わらず執取し貪着する。それゆえ衆生は意根の我見によって生々世々の循環を引き起こし、業果が絶えず、生死が絶えないのである。

もし六識が一たび滅すれば我見が消失するなら、なんと素晴らしいことか!惜しいかなそれは不可能である。それゆえ単に意識に我見を断たせても無駄であり、根本問題を解決せず、やはり意根に我見を断たせる方法を考えねばならない。

三十六、すべての財産は第八識というコンピューターの中に存在しており、意根が働かなければ財産は顕現しない。意根が財産を取ろうとし、三界の世間法を求め、成仏を望めば、第八識は一切の財産を輸送して意根に供給し、意根は六識と五蘊身を通じて享受する。意根は五蘊身と六識を自己と見なし、自己の用いる道具と見なす。それはあたかも身体の手足が身体のために用いられるようなものである。一切の法はすべて意根のために用いられるのであり、第八識は用いない。意根が一切の法に執着し、一切の法を必要とするのである。意根こそが最大の我であり、意根が自己を我と見なさず、五蘊身と六識を我あるいは我のものと見なさず、一切の法を我あるいは我のものと見なさなければ、万事大吉、我執と法執を断じ尽くし、成仏に余裕が生まれる。(未完待続)

——生如法師の開示
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菩提心を忘失し、諸善法を修めれば、即ち魔業となるとは、いかに理解すべきか。

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金剛経唯識深義(一四二)

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