原文:それゆえに何であるか。仏が微塵衆(みじんしゅ)と説かれるものは、すなわち微塵衆にあらず。これを微塵衆と名づけるのである。世尊よ、如来の説かれる三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)は、すなわち世界にあらず。これを世界と名づけるのである。
解釈:須菩提(しゅぼだい)は言う。なぜ仏は微塵衆と言い、ただ微塵衆という名で呼ばれるのであろうか。仏の説かれる微塵衆は、すなわち微塵衆にあらず、これを微塵衆と名づけるのであり、これらの微塵衆はすべて仮の名であって、実在するものではない。それゆえ仏は仮の名を付け、微塵衆と呼ぶのである。世尊よ、如来の説かれる三千大千世界は、真実に実在する三千大千世界ではなく、ただそれに仮の名を付け、三千大千世界と呼ぶのである。
これらの微塵衆は、いずれも真実の相(そう)ではなく、一つ一つの微塵も真実の相ではない。微塵の構成や微塵の数量も、真実の相ではない。いわゆる微塵とは、物質の色法(しきほう)を細かく分けて一つ一つの微塵にしたものであり、これらの微塵に真実の相があるのであろうか。我々が知るように、物質は地・水・火・風の四大種子(しだいしゅじ)が組み合わさって形成される。この物質を細かく分け、最小最小単位の物質に分けたものを微塵と呼ぶが、しかしこの微塵も依然として物質的であり、色法であって、地・水・火・風の四大種子が組み合わさって形成されるのである。
ただ、大きな物質は地・水・火・風の四大種子が組み合わさって形成され、四大種子の数量が非常に多いに過ぎない。この大きな物質をさらに細かく分けて小さな物質にすると、それぞれの小さな物質も依然として元の割合の地・水・火・風の四大で構成されており、ただ四大種子の数量が減少しただけである。種子の数量が減少すると、物質の体積と面積も減少し、最も微細な程度まで減少したものを微塵と呼ぶ。物質をどれほど小さく分けても、肉眼で見えるか見えないかにかかわらず、それはすべて地・水・火・風の四大種子が組み合わさって形成される。微細な物質、粒子物質、最小最小の粒子も、依然として地・水・火・風の四大種子が組み合わさって形成されるのである。
そしてこれらの地・水・火・風の四大種子は、如来蔵(にょらいぞう)が刹那刹那(せつなせつな)に送り出しており、刹那に送り出されることによって、これらの微塵粒子の生・住・異・滅(しょう・じゅう・い・めつ)を維持し、この粒子、微塵を留まらせ、作用させている。もし如来蔵が四大種子を送り出さなければ、これらの微塵は消滅して存在しなくなる。消失した後は、わずかな物質の実法すらなくなり、空無(くうむ)となる。この微塵が空無でない以上、それは地・水・火・風の四大種子によって形成され、如来蔵が刹那刹那に出力しているのである。出力した後、微塵の生・住・異・滅が形成され、生滅生滅生滅を繰り返し、この微塵という物質の一時的な不生不滅の現象として存在を構成している。
それゆえ仏はこれらの微塵衆は、すなわち微塵衆にあらずと説かれるのである。「非」とは、実相(じっそう)ではなく、実在するものではなく、真実ではないということであり、それに仮の名を付けて微塵衆と呼ぶのである。もし実在するものであれば、仏は微塵衆とは呼ばれないと説かれる。すなわち微塵衆には名前だけでなく実体も存在し、実体が存在するということは、不生不滅であり、第八識(だいはちしき)と同等である。実際の状況は、微塵衆は確かに生滅するものであり、四大種子によって構成されるものはすべて生滅法(しょうめつほう)である。それゆえこれらの生滅法に、微塵衆という名前を付け、微塵衆とは仮の名詞に過ぎないのである。
微塵衆の相は、四大種子で構成される粒子、顆粒の相に基づいて、それに仮の名を付け、微塵衆と呼ぶのである。これらの微塵がすべて四大の仮合(けごう)による物質粒子である以上、これらの物質粒子がさらに組み合わさって微塵よりやや大きな物質となり、やや大きな物質も依然として地・水・火・風によって形成され、やはり如来蔵が刹那刹那に四大種子を送り出し、維持し、執持(しゅじ)することによって存在しうるものである。したがってそれも真実の相ではなく、すべて虚妄(けもう)であり、生滅変異(しょうめつへんい)があるのである。
因縁が散じ去るとき、如来蔵が四大種子を送り出さなくなると、この微塵によって形成された物質粒子、組み合わさってできた物質は、滅して存在しなくなり、消失する。さらにこれらの物質によって、より大きな物質が構成されるが、どれほど大きな物質であっても、すべて地・水・火・風の四大種子によって形成され、如来蔵が種子を送り出し、刹那刹那にこれらの物質色法の存在を維持している。これらの物質色法がさらに組み合わさると、一つの星体(せいたい)を構成し、複数の星体がさらに組み合わさって一小世界(いちしょうせかい)を形成し、小世界がさらに組み合わさって一小千世界(いっしょうせんせかい)を形成し、小千世界がさらに組み合わさって一中千世界(いっちゅうせんせかい)を形成する。
中千世界がさらに組み合わさって一大千世界(いちだいせんせかい)を形成する。物質粒子、微塵粒子はすべて虚妄であり、実在するものではない。では、それらが組み合わさってできた三千大千世界はどうであろうか。それも同様に虚妄であり、実在するものではない。すべて共業(ぐうごう)の衆生の、彼らの如来蔵が共同で四大種子を送り出して構成した物質世界であり、これらは真実の相ではなく、実質的にはすべて如来蔵が幻化(げんけ)したものであり、すべて仮相(けそう)であって、本質は如来蔵性(にょらいぞうしょう)である。それゆえ仏は、三千大千世界全体がすべて幻の如く、空無であり、すべて如来蔵性であると説かれるのである。
如来の説かれる三千大千世界は、すなわち世界にあらず、これを世界と名づけるのである。この三千大千世界が物質粒子、微塵によって構成され、四大の仮合であり、刹那刹那に生滅変化し、生滅変異する以上、この三千大千世界は実在する世界ではなく、虚妄の世界であり、真実ではない。この三千大千世界は、ただ仮相に過ぎない。それゆえ我々はこの仮相に基づいて、この三千大千世界に仮の名を付け、三千大千世界と呼ぶのである。したがって三千大千世界もまた一つの仮の名詞に過ぎず、その相は虚妄相(きょもうそう)であり、如来蔵によって執持され、顕現(けんげん)された一つの虚妄仮相(きょもうけそう)であって、本質的にはすべて如来蔵である。それゆえ三千大千世界は、すなわち世界にあらず、真実の世界ではなく、それはただの名前に過ぎないのである。
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