(六)意識は常に意根を染めていくべきであり、それによって意根の固有の認識と観念を変えることを目指す。意識が一切の法を理解するのは難しくないが、難しいのは意根の理解と認識にある。したがって、意根の観念を変えることは非常に困難である。しかし一旦意根の観念が変われば、証果は手のひらを返すように容易いことであり、明心見性や様々な観行の成就もまた手のひらを返すように容易いこととなる。意根が一旦証果すれば、その思想観念もまた瞬時に変わる。
意識による理解と意根への薫習が前提であり、その後の作業、すなわち最も主要な作業は、意根自身に参究思量させた後で初めて自ら証得させることにある。この手順を踏まないものは全て解に過ぎない。
古語に云う:三歳の童子が言い得ても、八十の老翁は行い得ず。ある者は言葉では仏地の境地に至り、仏の証量を自らの証量の如く語るが、自ら真に証得し実践する時には既に成仏している。つまり理解することは極めて容易いが、真に証得することは難中の難である。故に聖人は稀にして甚だ稀であり、ある者の如く二、三冊の書物を読み、理解しただけで聖人が忽然と出現するようなものではない。
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