衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年05月05日    日曜日     第2開示 合計1497開示

意根は捨受(upekṣā-vedanā)に非ざることの証拠(二)

もし意根が如来蔵 (tathāgatagarbha) のような捨受 (upekṣā-vedanā) であるならば、如来蔵と同じように一切の境界に対して如如不動であり、いかなる境界が現前しようとも、八風に吹かれることなく、紫金の蓮に端座し、良い境界を取らず、悪い境界を捨てず、心中で境界の善悪美醜を分別しないのであるから、六識に促して喜びと厭いの貪瞋痴の行為を造作させることもなく、まして衝動的に行動することもないはずである。物事に遭遇しても怒髪天を衝くことなく拳を振り回したり足を蹴り上げたりすることもなく、喜びを顔に表わして手舞足蹈することもなく、すべてが淡々としており、何に対してもどうでもいいという様子であるはずだ。

もし意根がいかなる境地にあってもどうでもよく、すべて捨受であるならば、煩悩はなく、観行 (vipaśyanā-caryā) によって自心の煩悩を調伏する必要もなく、神様は永遠に清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、永遠に六識を主導して貪瞋の業行を造作させることなく、喜び・愛楽・貪愛などの思想感情が現れず、怒り・嫉妬・不平などの思想感情が現れることもない。そうであれば意根には平等性があり、一切の境界に対して心はすべて平等であり、偏りがなく、怨親も一律に平等に扱われ、怨親の区別がなく、公平公正であるはずである。心の中で極楽世界を欣楽することもなく、娑婆の穢土を厭い棄てることもない。成仏して祖となることを好むこともなく、三界を厭離して涅槃に入ることもないはずである。

もし意根が捨受であるならば、神様そのものが如来蔵と同じように解脱しており、善悪の境界はいずれも神様を束縛できず、一切の境界に対して受容しない、これこそ解脱した心である。しかし実際の状況はそうではない。意根の貪瞋痴の煩悩はきわめて重く、貪る心は抜け出すことができず、瞋の心は自ら救うことができず、三界の法、とりわけ三悪道にぎっしりと束縛されて脱することができない。それゆえ、意根は単に捨受だけではなく、三受のすべてがあり、捨受であることは少ないのである。

多くの場合、理由もなく感情的になり、喜んでいるのか喜んでいないのか、意識にはその理由がわからない。その喜びや不喜びはどこから来たのか、意識はときにその原因を考えを巡らせるが、ときにはどう考えてもわからない。意根は実に捉えがたいものであるからだ。喜びが顔に表われているとき、意識は「喜んでいることを人に見られてはいけない」と言うが、それでも思わず興奮が止まらない。これは誰がこれほど喜んで楽しんでいるのか、意識には制止できないのか。それは意根の楽受であり、意識にはときに容易に制御できず、まして意根は自らの感情を制御することはさらにできないのである。

たとえば、ある事柄に対して意識は非常に堪えようとするが、結局ついに堪えきれず感情を爆発させてしまい、制御できない。これは意根が憂鬱で苦悶している苦受の結果である。ときに、ある事柄に対して恐怖で震え上がり、意識は自分に言い聞かせる。「恐れることはない、大したことではない、何も起こらないはずだ」と。それでもなお恐怖が止まらない。これは誰が恐怖しているのか、制御できないのか。意根の恐怖は容易に制御できず、このとき意根は苦受である。喜びが顔に表われているとき、意識は「喜んでいることを人に見られてはいけない」と言うが、それでもなお思わず興奮が止まらない。これは誰がこれほど喜んで楽しんでいるのか。もちろん意根の楽受であり、意識には制御しがたいのである。

——生如法師の開示
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破戒比丘を呵責挙発して大罪報を得る-『大乗大集十輪地蔵経』

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