原文:何故か。もし世界が実有であるならば、即ち一合相である。如来の説く一合相は、即ち一合相に非ず。これを一合相と名づく。須菩提よ、一合相とは、即ち説くべからざるものである。ただし凡夫の人はその事に貪著する。
釈:世尊は説かれた:なぜそう言うのか。もし世界が確かに実有であるならば、その世界は即ち一合相であり、如来の説く一合相は、それは真実の相ではなく、真実の一合相は存在せず、ただ一合相という名があるに過ぎない。もしこの世界が実在するとすれば、それは結局無数の微塵の粒子によって構成された一合相である。如来はこの一合相が実在する相ではないと説き、一合相と呼ばれる実体も存在しない。すべては虚妄であり、本質はすべて如来蔵の性質である。それゆえ一合相も仮の名を付け、一合相と呼ぶのである。須菩提よ、一合相とは、説くことができず、また説きようのないものである。しかし凡夫たちはこれらの相に貪著している。
仏は物質の粒子、微粒子、微塵によって形成された一合相について説かれたが、この一合相には語るべきものは何もない。なぜならすべては四大(地水火風)が仮に和合した体であり、実有の相はなく、真実ではない。すべては如来蔵から幻化されたものである。すべては如来蔵の相であり、その本質もまた如来蔵である。そうであるならば、語るべき一合相は存在せず、一合相は説くべからず、また執着する必要もない。それは真実ではないからであり、すべての相は生滅する虚妄である。しかしこれらの生滅する虚妄の仮相に対して、凡夫の人は無始劫以来、ずっとこれらの虚妄の仮相に貪著し、すべてが実有で虚ろではないと考えている。凡夫は一貫して六塵(色声香味触法)の境界に貪着しているが、六塵の境界もまた物質や四大の微粒子によって組み合わされた仮相であり、実有ではなく、真実の相はない。ただの名前に過ぎないが、凡夫はこれを知らず、往々にしてこれらの名の仮相に貪着する。
凡夫たちは無始劫以来、自分が生存する国土世間や生活環境にずっと貪着している。実はこれらも物質の微粒子によって形成されたものであり、これらはすべて一合相に過ぎず、虚妄で、生滅し、変異するものである。すべて如来蔵が四大の種子を送り出し、刹那刹那に出力することによって形成され、維持され、執持されている。如来蔵がなければ、これらの一合相は存在しない。実はすべて如来蔵の相であり、これらの相は実有ではなく、すべて仮の和合によって幻化された相である。あたかも夢幻や空中に咲く花のように真実ではない。しかし凡夫はこの点を知らず、この事実を知らないため、接触するすべての相をことごとく真実と見なす。そして貪着し、執着し、こだわる。貪着し、執着し、こだわるがゆえに、これらの仮相に縛られ、六道の生死輪廻に縛られて解脱できない。
したがって仏は説かれた:凡夫の人(すなわち愚かな人)は諸法の実相を知らず、ひたすら虚妄の妄相に貪着するばかりである。ただ衆生が真の大乗実相の法を学び、世界全体、私たちが生存を頼る環境、私たちが接触する人事物理がすべて如来蔵が種子を送り出して形成された虚妄の相であり、本質はすべて如来蔵の相であって実有ではないことを知る。この事実の真相を証得してこそ、衆生の貪着性は軽減され、滅除することができ、そうして生死の因も滅除される。そうして衆生は生死の輪廻から離脱できるのである。
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