衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月06日    月曜日     第1 回の開示 合計1502回の開示

一切法の修証は、最初は身見の調伏と断除から始まる

一切の法の修証は、最初は身見を降伏し、身見を断除することから始まります。衆生が無始劫以来初めて仏法に触れる時、皆五陰の色身を認識することから始め、どれほどの劫を修行したか分からず、善根福徳が深厚になると、大乗菩薩法に触れ、次第に自身の中に真実の如来蔵が自らの本心であることを認識します。しかしこの時点でもなお身見と我見を降伏しておらず、まして断除など及びません。

我見の断除は信位の菩薩後の第六住位の果位に属し、我見と仮我が倒れた後に初めて真心が発見されます。この時、明心は住位の第七住位の果位となります。故に必ず我見を断ずることが先で、真心を証得することは後になります。大乗菩薩が禅を参究する過程においても、皆次第に身見と我見を降伏し、更に身見と我見を断除しなければなりません。明心後に身見我見が依然存在する状況はなく、もしこのような現象があれば、その者は明心しておらず、真の参禅段階を経ず、深い参究もしていないことを示し、その果位は怪しい、あるいは出所不明と言えます。

全ての修行者は、身見を降伏するこの関門を避けられません。大乗であれ小乗であれ、外道であれ。身見とは色身を真実と見なし、我のものとし、身体を我のために用い、我が身体を借りて一切の法を識別し、受想思することができるため、色身に貪着するのです。

身見の外的表現は、色身のために衣食住行を貪り、飲食や睡眠を貪り、身体に良い飲食・衣服・臥具などを享受させ、毎日色身に極めて多くの時間・精力・財物を費やし、非常に衛生的にこだわり、毎日衣服を洗濯し、毎日1~2回入浴し、毎日入念に各種の保養をし、代償を惜しまないことです。

潔癖は身見に属します。なぜ非常に清潔を愛し、しきりに洗い、拭くのか、あれほど衛生にこだわるのは、色身の我を非常に大切にし、色身を真実の我と見なしているからです。なぜあれほど飲食にこだわるのか。色香味を備え、栄養も必要とし、残った食事は量に関わらず全て捨て、残り物を食べないのは、色身を我とし、真実であるが故に、少しも不自由させず、少しも不浄があってはならないと考えるからです。

身見のもう一つの表現は貪欲です。これは最も深刻な身見我見であり、貪欲の断除は初禅定後の三果の段階にありますが、精進修行すれば貪欲の心行は次第に軽減し、淡泊になります。身見我見を降伏・断除していない時でさえも同様です。

平時の心は色身の我に占められ、多くの心思と時間を費やすため、仏法は容易に心に入りません。心が世俗法で満たされていれば、仏法は入る余地がなく、世俗法を取り除いて初めて仏法が入ります。心の容量は有限であり、これがあれば彼は存在できません。大量の廃物が詰まっていれば、如何にして宝蔵を収容できましょうか。

私たちが修道の過程でまず検査すべきは、自身の身見が非常に重く、色身を宝愛する現象が深刻でないかです。もし検出できれば、克服・対処する方法を考えねばなりません。これは修道の最も深刻な障害だからです。

仏法を思惟する過程で次第に発見するでしょう。この色身はあまり真実ではなく、把握し難いものであると。修道心が発起する時、既に色身の保養に時間を費やす余裕がなくなり、こうして身見の習気は少しずつ降伏し、観行の末に初めて色身が確かに生滅無常で不実であると認め、身見を断除するのです。

身見を断除した後、色身への貪愛現象は大いに軽減され、心思を道業に用いることができます。三十七道品を修行する過程で、身見は次第に淡泊になり、身を執する行為も減少し、より多くの精力を道業に注げます。三十七道品の修行を経ていない者には、これらの現象は変化しません。

身見は最も粗重な煩悩に属します。これを降伏・断除しなければ、他の修証は全て語れません。第一の関門を突破できなければ、後続の全ての関門も突破できず、明心開悟の事など論じる余地はありません。

どれほどの人が、この基礎さえ修得していないのに、自分は開悟したと思い込んでいることか。自らの心行をよく検査すべきです。なぜ自身の果位をあれほど気にかけながら、解脱を気にかけないのか。この気にかける心こそが深刻な我であり、この心も断除して初めて我見を断ずることができます。真に我見を断じた者で、毎日心に証果の我、聖人の我を抱いている者はいません。真に我見を断じた後にこのような我が存在するのは不可能です。

——生如法師の開示
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意根が証果における役割を否定することは法誹謗および法破壊という行為である

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金剛経唯識深義(一四五)

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