原文:何以故。一切有为法。如梦幻泡影。如露亦如电。应作如是观。佛说是经已。长老须菩提。及诸比丘。比丘尼。优婆塞。优婆夷。一切世间天人阿修罗。闻佛所说。皆大欢喜。信受奉行。
釈:なぜ金剛経を人に説く際に、相に執着せず、如如不動でいなければならないのか。それは一切の有為の法が、夢のごとく、幻のごとく、泡のごとく、影のごとく、露のごとく、また稲妻のごとく虚妄であるからである。菩薩は世の一切の有為法に対し、常にこのように観照し、このように捉えなければならない。世尊がこの金剛経の説法を終えられると、当機の者である長老須菩提、及びすべての比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆弟子、並びに一切の世間の天、人、阿修羅は、仏の説かれた法を聞き、皆大いに歓喜し、信受奉行した。
世尊は法会の終わりに、有名な四句の偈をもって一切の有為法の虚妄不実性を明かされた。それらがすべて虚妄不実であるならば、菩薩たちがなおも執着し、執取し、それに振り回される必要はない。あたかも夢の中で、いかに夢の中の一切の人・事・物・理に執着し、いかにそれに動揺し、業を造作しても、結局は何ひとつ得られず、毫末すら執取できないのと同じである。誰も夢から何かを得た者はいない。徒らに心を労するも、何の益があろうか。
一切の有為法は、如来蔵が縁に依って幻化したものである。あたかも魔術師が意念によって一切の人事物を成じ、突然虚空中に顕現するが、魔術師が意念を収める時、一切の人事物は結局空無に帰する。何ぞ捉えんとする労苦をいだき、徒らに心を駆り立てる必要があろうか。一切の有為法は、如来蔵という大海から生じた泡沫のようなもので、如来蔵の大海の中で生じては消え、消えては生じる。三界世間の一切の人・事・物・理は、海水の泡沫のごとく、生じては滅し、滅しては生じ、生滅を繰り返して大海に帰する。何ぞ徒らに泡沫に執取して、大海を見ないことがあろうか。
一切の有為法は、月影が千万の河海に落ちるがごとく、有るようで無く、有るように見えて掬い取れない。ただ凡夫は痴猿の如く、手を伸ばして掬おうとするが空しく何も得られない。菩薩たる智者は智慧の眼をもって影であると観照する。何を捉えることができようか。一切の有為法は、朝露のごとく、朝日が昇れば瞬く間に消え去り、速やかに生じ速やかに滅する。何を執着できようか。一切の有為法は、また雨中の電光雷鳴のごとく、刹那に虚空を走り、瞬時にして跡形もなく消え去る。驚き慌てている間に、恐怖に震えている間に、それは既に消え失せ、影も形もない。
世尊は教えられた。菩薩たちは悟った後、常にこのように観照すべきであると。そうすれば自心は清浄となり、執着もなく執取もなく、一塵も染まず、一法も執しない。こうして本心の真如と相応し、真如に随順すれば、無上菩提を得ることができる。この無執無取の心をもって、衆生のために金剛経を説き、諸々の衆生を度して共に幻塵を出で、共に幻影を滅し、共に諸仏の大智慧の海に入り、共に諸仏の一切種智を円満せしめるのである。
このように金剛経を受持読誦し、如来蔵の法を演説することの福徳と智慧は、世間の衆生の中で誰が比べ得ようか、誰が勝り得ようか。このように自利利他すること、何と妙なることか。何と快なることか。最後に世尊がこの経の演説を終えられると、四衆弟子、人天の大衆は、信ぜざる者なく、受けざる者なく、奉ぜざる者なく、行わざる者なく、これを如来の説かれた金剛般若波羅蜜経を信受奉行するという。
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