思念とは何の心所であろうか。思想とは何の心所であろうか。研究とは何の心所であろうか。推敲とは何の心所であろうか。参究とは何の心所であろうか。
思心所にはどのような作用があるのか。想心所にはどのような機能作用があるのか。
明白とは何の心所であろうか。願意とは何の心所であろうか。希望とは何の心所であろうか。理解とは何の心所であろうか。打算とは何の心所であろうか。盼望とは何の心所であろうか。祝愿とは何の心所であろうか。願力とは何の心所であろうか。懂得・証得・知道とは何の心所であろうか。同意・賛同・附和とは何の心所であろうか。
念茲在茲とは何の心所であろうか。心中の影像が揮之不去とは何の心所であろうか。念念不忘とは何の心所であろうか。牢記在心とは何の心所であろうか。堅定不移とは何の心所であろうか。制心一処とは何の心所であろうか。目不轉睛とは何の心所であろうか。良知とは何の心所であろうか。
心の状態・心の特徴・性格・気質・本性はすべて心所に属し、善性もあれば悪性もあり、不善不悪性もある。厳密に言えば、心所は五十一種類だけではなく数多く存在し、細かく分類すれば少なくとも数百から数千に及ぶ。天親菩薩は大まかに五十一種類にまとめたに過ぎず、全面的ではない。もし仏がこれらの心所をまとめれば、それは極めて微細なものとなる。したがって私たちが仏法を学ぶ際には、仏の説かれたことに完全に依拠するほか、他の人に依拠する場合でも状況に応じて処理し、柔軟に対応する能力が必要である。たとえ仏の説に依拠する場合でも、一定の柔軟性を持つべきであり、仏の説を完全に理解することは非常に困難である。時に仏語と仏意には一定の差異や隔たりがあり、完全に一致するわけではない。なぜなら衆生の智慧には限界があり、仏は自らの意図を完全に説き明かすことができず、往々にして含蓄を持たせたり巧みに説いたりするため、智慧が不足していると誤解しやすいからである。多くの人々が仏経を講じているが、実際には仏の本意ではなく、仏法の意を曲解する現象があまりにも多くあまりにも普通であり、仏は耐え忍んでおられる。忍ぶ心はないが。
心所の中で、五遍行心所以外の他の心所は頻繁には現れず、ただ個別の時に偶発的に出現して作用する。五別境心所は個別の時に出現し、善悪の心所や不善不悪の心所も個別の時に出現し、常に現行するわけではない。仏地に至ると、心所は常に現行するようになるかもしれない。例えば定心所は、仏心が常に定中にあり、定から出ることはない。例えば慧心所は、仏心が常に大智慧を持ち、智慧のない時はない。例えば勝解心所は、仏心が常に一切の法を勝解できる。例えば善心所中の無貪・無瞋・無痴は、仏心が永遠に常に無貪・無瞋・無痴である。
人それぞれに性格・気質・本性があり、各人の心所は異なる。衆生の心がどれほど複雑であるかによって、世界もそれだけ複雑であり、世界は衆生の心によって幻化されたものである。もし衆生の心がすべて仏の心のようであれば、世界ははるかに単純で殊勝となり、雲は淡く風は軽やかで、あるいは雲淡風軽さえもなく、静寂で寂寥として、その素晴らしさを正確に形容する言葉もないほどであろう。
世界は最終的にそのようになる。衆生が修行を究めると心はすべてそのように智慧に満ち純粋となり、少しも複雑ではなく、性格や個性は消滅し、気質や本性は除去され、心所はすべて善で悪はなく、二十一種類だけになる。多からず少なからず。しかし心をこの程度に消融させるには、三つの無量劫を経なければならない。これによって修心がいかに難しいか、心を変えることがいかに困難であるかがわかる。心が変わらなければ、苦しみを受けなければならず、自らを苦しめ、他人をも苦しめ、互いに苦しみ合い、衆生が同根であることを知らず、ただ互いに煎り合い、そして自らを熬るしかないのである。
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