衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月11日    土曜日     第1 回の開示 合計1515回の開示

貪愛の煩悩をどのように断じるか

修行とは貪愛を断じるためのものであり、貪愛は六根が六境に触れるところに生じる。故に六根が六境に触れるところで貪愛を止めなければならない。眼根が色境に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めたのである。耳根が声境に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めたのである。鼻根が香境に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めたのである。舌根が味境に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めたのである。身根が触境に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めたのである。意根が法境に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めたのである。心の貪愛習気に従えば、本来は色声香味触法に対する貪愛が生じるべきところ、修行の力が強固であるが故に貪愛の現起を制止し、貪愛を止めた。これが修行の功徳であり、貪愛なきことが修行の徳である。かくして修行より功徳が生じる。徳とは品性・徳行であり、心の善き行相である。善あれば解脱へと趣き、善あれば自在に近づく。貪瞋痴の煩悩は束縛であり、解脱せず自在ならざる所以である。

功徳は容易に現れない。無始劫来の貪瞋痴煩悩は根深く、習気は深重にして降伏・抜除容易ならざるが故である。長劫にわたる思惟観行を経て、貪愛の苦を観じ、少しずつ貪愛を降伏せねばならない。もし貪愛の苦を知らなければ、貪愛を降伏することはできない。衆生は皆楽を好み、苦を避けて楽へ趣く。眼前に苦を観じた時に初めて苦を避け、苦患を除くことを選ぶ。故に修行の第一歩は苦を観じ、苦を知り、苦を感知することである。これにより心を六境に触れるところから引き戻し、六境の深みに入らなければ、貪愛の苦は生じない。第一歩の苦観・苦知なくしては、第二の集を断ずることも、第三の滅を慕うことも、第四の道を修することもない。故に人が道心を発すことは極めて容易ならず、貪愛の習性による所以である。

一切衆生を観るに、六境の楽触を貪愛せざるはなく、六境の触受を放棄せんとしない。実際には貪愛は皆苦受であって楽受ではない。然るに衆生は貪愛の苦中にありながら自覚せず。無数の仏法修行者も、なお世俗生活を享受し楽受を追求することを目的とする。しかし結果は皆苦である。ただ無始劫来、智慧なくこの理を認識せず、盲目に楽を追求しても真の楽を享受できず、これが愚痴である。愚痴の煩悩は最も脱し難く、世尊が苦口婆心に諭されても、衆生はなお愚痴無明の中にある。修行は容易か。全く容易ではない。故に初めて我見を断ずる難しさは天に登るが如しと説かれる。この点を直視し、事実に基づき、慢心せぬよう心掛けるべきである。

——生如法師の開示
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