原文:またこの世界が壊れようとする時、二つの太陽が現れる。二つの太陽が現れた後、小川や泉の流れはことごとく枯れ果てる。三つの太陽が現れた時、無熱悩池から流れ出る四つの河もまたことごとく干上がる。四つの太陽が現れた時、大海の水は一由旬減り、あるいは二由旬、三由旬と次第に減じて十由旬、あるいは二十由旬に至る。次第に枯れ果て八十由旬に至ってもなお水が残り、あるいは深さが一タラ樹ほどに、あるいは胸の高さほどに、あるいは牛の足跡ほどになり、ついには指の表面を覆うほどの少量の水となる。その時、大海の水はことごとく乾燥し、跡形もなく消え尽きる。
釈:娑婆世界が壊れようとする時、二つの太陽が現れる。夏の時期でさえ一つの太陽に耐えられないのに、ましてや二つの太陽である。二つの太陽が現れた時、それらの小川や泉は干上がる。三つの太陽が現れた時、無熱悩池から流れ出る四大河も干上がる。四つの太陽が現れた時、四大海の水は一由旬(インドの度量単位。一由旬は四十里に相当)減る。大海水とは地球の下方にある四大海を指し、地球上には存在せず、無熱悩池も地球上にはなく、いずれも地球より無量倍大きい。
地球上の海水はとっくに消え失せ、四大海水はさらに減少を続け、二由旬、三由旬と減じ、十由旬、二十由旬、八十由旬の量となり、ついにはわずかな水が残る。水深は一本の木の高さほどになり、さらに減じて人体の胸元ほどの深さとなり、さらに牛の蹄跡ほどの深さにまで減じ、最後には掌を平らに置いた際の指先を覆うほどの少量の水となる。地球より無量倍大きい四大海水が、太陽に照らされて牛の蹄跡ほどの水となり、ついには指先を覆うほどの少量の水となり、最後には完全に干上がる。大地は乾燥し、一点の水分もなくなる。
四大海水が形成された当初、水はどこから来たのか。源はどこにもない。最後に四大海のほとんどが蒸発して消滅するが、水はどこへ蒸発したのか。虚空へ行ったのか。虚空にそれほどの水があれば収まりきれず、もし虚空に水があればそれはもはや虚空とは呼べず、大海と呼ぶべきである。ゆえに大海水が消滅しても行く先はなく、水界はこのように虚妄であり、来るところなく、去るところなく、空から空へと至る。全三千大千世界はこのように虚妄であり、十方世界の仏国土もまたこのように虚妄である。生じては滅し、滅しては生じ、いずれも執着すべきではない。水界の性は、生じた時点で本来空であり、滅する時もまた空である。空から空へと至り、一無所有となる。
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