衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年05月16日    木曜日     第1開示 合計1534開示

一切法は意根による審査と管理が必要です

「意根が恒に審査し思惟量る」という「審」の字は、意根の心理活動を明らかにすると同時に、意根の果たす役割をも明らかにしています。これは意根が無用の長物や飾り物ではなく、極めて重要な決定的役割を担う活発な識心であることを示しています。

意根はあらゆる法に接触する際、必ず審査を加えます。六識が了別した法に対しても、意根は審査を行います。審査を通過した場合、決定を下し処理を施します。では、意根は禅参究においてどのような作用を果たすのか?我見を断つ際には?明心見性の際には?一切法を証得する際には?いずれも決定的役割を担うのです。

一切の法は意根による検閲を経なければならず、意根の審査合格なしに処理することはできません。ここに意根の主導的地位と主体性が窺えます。意根が審査する際には独自の識心活動が生じ、自ら考量を加えるため、六識の了別内容を無条件に即座に承認することはありません。したがって、六識の一切の認識は意根に明瞭に理解させねばならず、意根が理解しなければ審査は不合格となり、通過できず、意根は決定を下せません。我見を断つこと及び明心見性は、いずれも意根の審査を経る必要があり、意根が同意しなければ我見を断つことも明心見性も成就しません。意識が一方的に我見を断ち明心を主張することは、意識自身の理解・認識に過ぎず、主人たる指導者の同意がなければ無効となります。意識が指導者の同意を得ずに独断で我見を断った・明心したと主張することは、道理に反します。

では、如何にして意根自ら結論と答えを導き出すか?意識の分析思惟を減らし、意根自らに思惟考量させる機会を増やすことが最も効果的です。意識が一旦答えを知れば、もはや参究しようとせず、意根も参究する機会を失い、永遠に証悟できません。したがって、明心の答えを安易に聞き出したり語ったりして意識が知ってしまえば、意根が用功できなくなり、証悟は不可能となります。我見を断つ内容についても同様に、師に詳細過ぎる説明を求めてはならず、意識が全て知ってしまえば意根は思考の余地を失い、我見を断つことは極めて困難になります。

意根が恒に審査し思惟量る「思」とは、思惟・考量・分別を意味し、「量」とは量度・度量・甄別・考量を意味します。意根の「審」「思」「量」という心理活動は非常に深微であり、発見・観察が困難ですが、その識心活動は依然として強大で、王者の気概を備え、一切の法に対する決択において主導的地位を占め、代替不可能なものです。

——生如法師の開示
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