「意根が恒常的に審査思量する」という「審」の字は、意根の心理活動を明らかにすると同時に、意根の働きをも明らかにしています。これは意根が無用の存在や飾り物ではなく、極めて重要な決定的役割を担い、生きた躍動的な識心であることを示しています。
意根はあらゆる法に接触する際に必ず審査を行います。六識が弁別した法に対しても、意根は必ず再審査します。審査を通過すれば決定を下し、処理を進めます。では禅参究において意根はどのような役割を果たすのか?我見を断つ際には?明心見性の時には?一切法を証得する際には?いずれも決定的な役割を担っているのです。
一切の法は意根の検閲を経なければならず、意根が審査に合格しなければ処理できません。ここに意根の主導的立場と主体性が窺えます。意根が審査する際には独自の識心活動が生じ、自ら考量を重ねます。六識の弁別を即座に認めるわけではありません。故に六識の一切の所見は、意根に明瞭に理解させねばなりません。意根が理解しなければ審査不合格となり、通過できず、決定を下せません。我見を断つことも明心見性も、意根の審査を経なければならず、意根が同意しなければ成就しません。意識が一方的に我見を断ち明心したとしても、それは意識の自己解釈に過ぎず、主君たる意根が同意しなければ無効です。意識が指導者の同意を得ず独断で我見を断ち明心したなどという道理はありません。
如何にして意根自ら結論と答えを導き出すか?意識の分析思考を控え、意根自らに思量考量を委ねるのが最も効果的です。意識が一旦答えを知れば、もはや参究しようとせず、意根も参究の機会を失い、永遠に悟りを証することはできません。故に明心の答えを安易に聞き出したり語ったりすれば、意識が知得した時点で意根は用功できなくなり、証悟は不可能となります。我見を断つ内容についても、師に詳細を説き過ぎるよう求めれば、意識が全てを知ってしまい、意根が思考を続けられず、我見を断つことが困難になります。
意根の恒審思量における「思」は、思弁・思慮・弁別の意、「量」は量度・測量・甄別・考量の意です。意根の審・思・量という心理活動は極めて深微で、発見・観察が困難ですが、その識心活動は依然として強大であり、王者の気勢を備え、一切の法に対する抉択において主導的地位を占め、代替不可能な存在です。
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