衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年05月17日    金曜日     第3開示 合計1538開示

禅の修行には因縁の具足が必要であり、自然と成就する

戒定慧がまだ修まっておらず、六度が具足していない時は、まだ参禅の時期ではない。ならば参究はゆっくりと、禅定が追いつくようにしなければならない。もし禅定が不十分なら、真に心を込めて観行することはできない。禅定が足りなくても結果を研究することはできるが、身心には利益がなく、功徳の受用がない。これは実に惜しいことだ。菩薩の六度すら具足していないのに、焦って参禅すれば、往々にして事は願いとは逆になる。師匠は皆さんに苗を無理に伸ばすようなことはしない。皆さんも自ら苗を無理に伸ばしてはならない。小さな苗がようやく芽を出したばかりなのに、それを無理に1メートルも引き伸ばせば、その苗は生きられるだろうか?苗が死ねば、小さな木も大きな木も望みはない。仏法を学ぶこの一生が解悟に終われば、この一生の人才が廃れるだけでなく、後世でもこの人は容易に人才とはなれない。苗を無理に伸ばす行為が破壊するのは一生だけではないかもしれない。次の一生の棟梁さえ成就できず、棟梁となる機縁を失ってしまうのだ。

多くの人々が私に早く禅三を開催するよう勧める。なぜ禅三をやるのかと尋ねると、彼らは三日間参禅を導けば悟りが開けると言う。皆さん、私が三日で皆を悟らせることができると思うか?

香巌禅師は師匠の傍で十八年間侍者を務めたが、その根器と好条件があっても悟りは開けなかった。今の末法の時代の衆生は、禅定がなく、戒律を守れず、菩薩の六度も具足していない。そんな者に三日の機縁を与えて悟りが開けるだろうか?それなら仏陀がこの世におられる末法の時代、サハ世界ではどれほどの人が悟りを開くことになるのか?

しかし、三日間で全員を悟らせることは可能だ。できないわけではない。一言のことで、難しいことではない。だが、皆がこのように悟った後、一人一人がどうなるか?サハ世界はどうなるか?仏法の行く末はどうなるか?

昔、ある禅師がいた。弟子が狭い道で待ち伏せし、刀を突きつけて禅師に密意を明かすよう脅した。禅師はこのような事態に直面しても全く恐れず、直接答えることを拒んだ。ただ弟子を押しのけて「お前が来い、私が行く」と言った。これは弟子に対して高度な責任を持つ師匠であり、取引や売買はせず、どれだけ多くの弟子を度脱したか、自分がどれほど優れているかを誇示もしない。弟子の因縁と条件が具足すれば自然に悟り、因縁と条件が具足しなければ再び六度の条件を補い、戒定慧を修める。決して情実で与えることはしない。

古代にはこのような実例が多くある。これこそが仏教と衆生に対して責任を負う良い禅師であり、このようにして初めて四恩に報いることができ、個人の名声を求めないのである。

仏法が長く流布すると弊害が生じる。実は仏陀が入滅して百年後にはすでに弊害が始まっており、少しずつ変質し始めた。生滅の法を説くことが「水老鶴」に成り下がり、すでに阿難を痛心させ耐え難くさせ、涅槃に入って去らせた。もし阿難が仏法がすでに二千余年も流布した今の世に来たなら、おそらく一日も留まりたくないだろう。少しの悪法や悪習も知りたくも耐えられもしないだろう。幸いなことに彼には「行くと言えば行く」という能力があり、見なければ心も乱れない。彼ほどの能力を持たない菩薩はどうすればよいのか?ただ耐え、受け入れ、それから悪い風潮を変える方法を考えるしかない。退路はないのだ。

——生如法師の開示
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