戒・定・慧がまだ修まっていない場合、六波羅蜜が具足していないときは、まだ禅を参究する段階に至らず、しばらく参究を控え、禅定が伴うべきです。禅定が不十分であれば、真に心を観行することができません。禅定が足りなくても研究結果は得られますが、身心に利益がなく功徳の受用が得られないのは誠に惜しむべきことです。菩薩の六波羅蜜すら具足していない者が焦って禅を参じると、往々にして事が願いと逆になるものです。師匠は皆さんに苗を無理に引き伸ばすことはしません。皆さんも自ら苗を引き伸ばしてはなりません。小さな苗木が芽を出したばかりなのに、それを無理に1メートルも引き伸ばせば、その苗は生き残れるでしょうか。苗が枯れれば、小樹も大樹も望めません。仏法を学ぶこの一生が解悟に終われば、この世の人格を廃するだけでなく、来世においても人材となることは容易ではなく、苗を無理に伸ばす行為は一生を台無しにするだけでなく、来世の棟梁をも成就できず、棟梁となる機縁を失うことになります。
多くの人々が私に禅三を急ぐよう勧めます。なぜ禅三を行うのかと問うと、三日間禅を指導すれば悟りが開けると言います。皆さん、私が三日間で皆を悟らせることができるでしょうか。
香巌禅師は師匠のもとで18年間侍者を務め、あの根器と恵まれた環境にあっても悟りを開けませんでした。末法の衆生である現代人が禅定もなく戒律も守れず、菩薩の六波羅蜜も具足していない状態で、三日の機縁で悟りが開けるでしょうか。もしそうなら、仏陀が在世されたなら、この娑婆世界の末法時代にどれほどの人々が悟りを開くことでしょう。
ただし、三日間で全ての人を悟らせることは可能です。不可能ではありません。一言の事柄で、難しいことではありません。しかしこのように悟った後、人々はどうなるでしょうか。娑婆世界はどうなるでしょうか。仏法の行く末はどうなるでしょうか。
古代にあった禅師の例では、弟子が狭い道で待ち伏せし刀を突きつけて禅師に密意を語るよう迫りましたが、禅師はこのような事態にも全く恐れず、直接答えようとしませんでした。ただ弟子を押しのけて「汝来たれ、我は去らん」と言っただけです。これこそ弟子に対して高度な責任を持つ師匠の在り方で、取引や売買をせず、自らが多くの弟子を導いたことを誇りともしません。弟子の因縁条件が具足すれば自然に悟り、因縁条件が具足しなければ再び六波羅蜜の条件を補い、戒・定・慧を修め、決して情実に流されないのです。
古代にはこのような実例が多く、これこそ仏教と衆生に対して責任を負う立派な禅師の姿です。このようにしてこそ四重恩に報い、個人の名声を求めないのです。
仏法が長く伝わるにつれて弊害が生じ、実は仏陀が涅槃に入られて百年後には既に弊害が始まり、少しずつ変質し始めました。生滅法を説くことが水老鶴のようになってしまい、既に阿難尊者を心痛させ耐え難くさせ、涅槃に入られるに至りました。もし阿難尊者が仏法が二千余年伝わった現代の世に来られたなら、一日も留まりたくないとお思いでしょう。少しの悪法や悪習も知りたくも耐えられないでしょう。幸い彼には即座に去る能力があり、目に入れても煩わされません。彼のような能力のない菩薩はどうすればよいのでしょうか。ただ耐え受け入れ、再び悪しき風潮を転化する方法を考えるしかなく、退路はないのです。
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