意根は第八識によって変起される一切の相分に基づいて恒常に審査し思量するが、思量する際には軽重緩急があり、重点があり、主従がある。一切の法を同時に思量するわけではない。なぜなら、第八識が変現する法は意根がすべて縁にすることができ、縁した後に初めて思量性を起こす、あるいは選択的な思量を行うからである。第八識が変起する相分は非常に広範であり、意根の思量範囲も極めて広く、一か所あるいは限られた数か所に定まることが難しいため、専注しにくく定力を保ちにくい。特別な訓練を経て、意根が少数の法のみに作意し思量するか、あるいは意根がある法への執着と攀縁性を滅除し、過度に攀縁しなくなって初めて定を得られ、智慧が増強される。
例えば、四禅八定や未到地定を修得した者は、その意根に必ず定がある。様々な三昧を得た者も、意根に必ず定がある。外道法を修める場合、例えば気功や各種功法など、また各分野の研究員や科学者などにおいても、意根には禅定が存在する。もちろん、最も優れ深い定は仏の意根であり、それは意根が徹底的に識を智に転じた後に具える甚深な禅定、無上の禅定である。初地以上の菩薩の意根は識を智に転じ始め、一分あるいは多分の法無我智を具え、人我執を断じ、一分あるいは多分の法我執も断じており、その攀縁性は大幅に減少している。したがって、意根の定は浅くない。八地菩薩と仏地に至っては、様々な三昧が無窮無尽で変幻自在となり、意根の定は深遠広大無比である。意根の定力が優れているため、法への思量が集中・専注され、智慧は深遠かつ広大となる。
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