第八識によって現じられる相分は、色法塵と心法塵の二部分を含み、意根は全てを思量する。色法塵に対する色声香味触法の思量、および心法塵に対する六識心と心所法の思量を含む。また意根は自らをも思量することができ、自らを思量する時、意根の証自証分が現前して運行する。証悟後、意根は大智慧を獲得し、第八識をも思量できるようになる。六識が了別できず接触できない多くの相分も、意根は意識の情報提供や助力を必要とせず思量できる。これにより、意根の縁じる範囲は極めて広範であり、思量する対象と内容の量が膨大であるため、意根を定に入らしめるのは相当に困難であり、意識心を降伏させるよりも遥かに困難である。
意根が色法塵を思量する例として、色身に対する思量がある。第八識に依って身根を縁じると、身根の様々な状態を了別する。その後、如何に身根を造作し変化させるか、身体を最適な状態に保つか、不快や痛みを除去するか、危険や事故を回避するか、休息させ疲労を回復させるか、負担を軽減するか、呼吸を円滑にするかなどを思量する。睡眠中にも身体を安楽な姿勢に保つよう思量し、不適があれば身体を寝返らせ、痒みを掻き、排泄行為などを造作させる。身体の不調や異常に対しては、思量後に六識を覚醒させて了別処理させ、身体の損壊を防ぐ。
色声香味触法に対する意根の思量は、六識に詳細な了別と造作をさせるか、回避させるかを決定する。ある法塵は意根の思量後、六識が接触処理できず第八識の協力を要するため、事が完了しても六識は覚知しない。意根が法塵を思量し未完了の場合は決断を下さず、継続的に思量を続けるため、夜間の夢中に現れても意識はその意義を知らない場合がある。
意根のこの思量性は、六識の身口意造作と同時進行し相互に障礙せず、これが「身口意行が無心の如く造作する」と称される所以である。しかし意根の思量は深微で、気付かれ難い持続性を有する。禅修行者が公案に専注する境地は正にこれであり、日常動作において念々に公案を懸け、意識の浅薄な思考を超えて意根に深く浸透させる。
意根の思量性を活用すれば深悟が得られ、智慧の宝蔵が開かれる。意根が証得を認めれば心行に質的飛躍が生じ、身心の変化は意識が容易に得る知見を遥かに超越する。これは意根が自ら証得したもので、六識の伝聞や推測ではないため深く信受し、心行を根本から転換する。
心法塵に対する意根の思量は、六識の六塵了別状態を検分する。六識の疲労度、休息要否、継続要否、六塵への愛憎を判断し、身口意行の停止や六塵境界の転換を決定する。
意根は自らをも思量する証自証分を有し、自らの決断が理に適っているか、修正要否を検討する。思量後、決断を変更または堅持し行動化を図る。意根の慣性力が強く「頑固」と称される者は、誤った決断と知りつつも変更せず結果を顧みない。故に意根の智慧の有無により思量性と決断力が異なり、結果も千差万別となる。
第八識に対する意根の思量は、意識の思考と導きによって初めて可能となる。無始以来第八識と共存しながらその機能を自己のものと誤認してきた意根は、意識による教理の薫習を通じて第八識の体性を了別し始める。第八識を証得しようと決意すれば参禅を選択する。
第八識証得後、意識による観察思考を通じ、意根は第八識の万法出生機能、五陰・六識・自らの無我性を思量し大智慧を発起する。次第に五陰六識及び自らの実在性を否定し、自我執着を断じる。第八識の機能を自己のものと見做さなくなり、智慧深化と無我性増大、無明稀薄化、心行清浄平等化が進む。意根が転識得智すれば単独で第八識を思量し、万法を自己所有と迷わず、無我平等の心行を成就する。
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