意根は六識の了別性と了別内容に基づいて諸法を思量する。六識が現量で了別する一切の法、あるいは非現量で了別する一切の法を、意根は全て了知することができる。六識は了別しながら、同時に内容を意根に伝えるため、意根は即時にそれを了知し、六識が了別した内実に基づいて思量する。六識が何を了別すれば、意根はそれについて思量し、思量した内容に基づいて何かを確認し、主導権を握り決定を下し、対応策を講じる。その後、六識による身口意の行いが造作されるのである。
意根は六識が存在しない状況下でも、引き続き一切の法や六塵境界を思量する。六識が断滅する昏迷時や睡眠中であっても、意根は存在する限り絶え間なく思量を続ける。より多くの人・事・物・理を如何に了知するか、五陰を如何に活動させるか、六識に六塵を継続して了別させ自身もそれに依ってより多くの法を知るにはどうするかを思量するのである。
無夢の睡眠時には六識は全て滅するが、意根は相変わらず思量する。何を思量するのか?その対象は極めて多く、五陰身が十分休息したか、いつ目覚めるべきか、日中の出来事、幼少期の記憶、過去生の因縁、未来の事柄などを思量する。身体に生じたあらゆる状況についても思量し、その後如何に対処するかを決定する。日中に意識が了別した六塵境界についても再考し、未解決の問題を反芻することもある。学仏後に意識心が精進すれば、意根も意識が学習した仏法の内容を思量するようになる。そのため夢中で意識に仏法の復習や実践をさせることがあり、こうした学仏修行は一定の効果を発揮し、深く内心に刻まれるのである。
日中に六識が了別した法塵は全て意根に蓄積され、睡眠中も意根は日中の出来事を思量する。意根が頑固に思量を続けると夢が出現する。また意根は第八識が現起させる他の六塵境界も思量する。その了別する智慧は十分に強くないが、依然として思量性を有している。もし智慧が高ければ、過度・深細な思量なしに直ちに決断を下し、主導権を握って決定することができる。しかし了別慧が不十分なため、思量性を相応に強化し、絶えず得失を秤にかける過程を必要とする。智慧が劣る場合は即座に明瞭に了別できず、あれこれ思量を巡らせ、自身で思量し尽くしたと確信して初めて決断を下し、如何に行動すべきかの主導権を握るのである。
意根にはこの恒常的な思量性があり、審(よく考えること)は無論、審慮思慮を指す。睡眠中も意根は五陰身の活動時期に達したか、覚醒すべきかを思量する。意根に審度(よく見極めること)がなければ主導権を握らず決定を下さないため、意根には審度性と思量性が具わる。審度思量を経て初めて決断を下し、対策を講じ、主宰者として身口意の行いを如何に造作するかを決定する。これが意根の思量性と審決性である。
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