禅定には定福があり、杀生戒を持たない禅定においては、定福は少ない。しかしながら禅定の力が深まるにつれ、身口意の造作が次第に減じ、ついには身口意行を造作せざるに至れば、これらの外道の禅定は皆、戒を持する禅定となる。持たずして持ち、自然に戒が備わる。このような戒は、学仏者が持つ五戒や八关斎戒よりも清浄であり、さらに大多数の菩萨戒よりも清浄である。
かくも深く一切の戒を犯さない禅定を有するが故に、外道たちは仏の説法を聴聞する当下、瞬時に思惟し、ただちに四果の阿罗汉を証得する。初果・二果・三果を経る必要なく、学仏者たちがこれに及ぶことができようか。
外道の禅定は我見を断除し煩悩を断つことはできないが、外道の禅定は自我を降伏させ煩悩を調伏する力を有する。五陰の我とは切れそうで切れぬ縁(えん)を保ち、煩悩とも断ち難き関係を保ちつつ、最終的に仏陀が教法を開示されると、外道たちは深く仏陀を信じ、真に仏陀に帰一するに至れば、速やかに聖果を証得する。我見と煩悩はもはや断ち難き関係ではなく、徹底的に断除されるのである。
学仏者が修める浅い禅定において、もし自我を降伏させず、煩悩を調伏できないならば、煩悩を断つ道程は、なお遥かに遠いと言わざるを得ない。
0
+1