念を離れた霊知の心とは、意識が無念の際に六塵を了別する状態を指すだけでなく、もう一つの心には言語や表面的な思惟分析作用はないものの、六塵の境界及び六塵を超えた法を知ることができ、より霊妙に、より隠微に、より深沈に、より思量性を帯び、思量の力はより大きく、問題解決能力はより強いものがあります。それが意根です。
意根は意識のように六塵の境界に対して思惟分析することはできませんが、意根には独自の思量方式があり、しかもその思量性は非常に強いです。衆生は主に意根の思量性に依拠して決定を下し、主宰します。もし意識の智慧が不足していれば、意根の独特で隠微な思量性を観察し了知することができず、その思量の方式や脈動は人にも知られず、自身の意識にも知られないため、多くの人々がこれを誤解し、頭を悩ますのです。
意根が単独で思量する場合も非常に多くあります。例えば、夜に解決されていない問題を抱えたまま眠りにつき、翌朝目を開けた瞬間に意識が「こういうことだったのか」と問題解決を知るような場合です。多くの問題は意識では考えがまとまらず未解決のまま放置され、他のことに取り組んでいるうちに、いつとはなく突然ひらめきが訪れます。「そうだ、こういうことだったんだ!」と悟り、解決策を知るのです。これが意根の思量作用であり、密かに黙々と思考を続け、意識はそれを知りません。
意識が一時的に放棄し、思惟分析をやめても、意根は放棄せず、ずっと心に留め、気にかけ、思量し、考え続けます。意根の心所法は常に作動しており、意識のような明らかな思惟分析作用はありません。意識の思惟分析機能とはいくらか異なりますが、具体的にどのような差異があるのかは、無生忍を証得した菩薩でさえも了知できず、この内容は非常に深遠です。
意根の思量が明らかであるか否かは、意識の智慧に対して相対的に言われるものです。意根はそのように作動しており、故意に何かを隠しているわけではなく、意識に観察し発見する智慧があるかどうかにかかっています。第八識の心行と作動も非常に明らかであり、五識や意識の作動と同じくらい明白です。第八識は自らを意図的に隠すわけではなく、意識に強い観察の智慧があるかどうかが問題です。もし意識の慧力が強くなければ、意識自身の心行さえ観察できず、ましてや意根や第八識の心行はなおさらです。
実際、意根が思量する法は非常に多く、範囲も非常に広範です。意識が知っているのはほんの一部に過ぎません。意識に智慧がないときは、意根の思量性について全く理解できません。意識が理解しているかどうかに関わらず、意根には独自の思量機能と作用、独自の思量方式があります。例えば、意根が前世の遺骨の問題を解決する場合、意識はどうしてもそのようなことを知ることはできず、意根自らが単独で解決方法を思量します。また、意根が他人の夢に入る、あるいは人に説法する、あるいは何かを依頼するなど、これらはすべて意根が単独で作動しており、その中には意根の思量性が含まれていますが、意識はそれを知りません。
意根が六塵上で思量する法は、意識に知らせることもできれば、知らせないこともできます。これは意図的に知らせるかどうかではなく、意識に智慧があるかどうかにかかっています。多くの法については、たとえ智慧ある者であっても、意根が何を思量しているかを知ることはできません。意根の思量結果は、時には意識が知ることができ、時には知ることができません。実際、ほとんどの場合、意識はそれを知らず、これは智慧が不足しているためです。
意根が思量を終え結論を出す場合があります:「この件は重要だ!」重要な問題は必ず六識に実行させ解決しなければならず、六識に知らせる方法を考えなければなりません。もしその事柄が重要でなければ、意根は自ら単独で解決できるため、わざわざ意識に気づかせようとはしません。意識が比較的鈍く、覚知性が乏しい状況下では、意根が思量した法や導き出した結論を、意識は全く知りません。たとえ意識が知らなくても、意根は相変わらず六識を指揮して実行に移します。
一念不生のとき、意識は念を生じませんが、意根はそうではありません。意根の念は通常途切れません。一念不生の状態で、意識が突然ある事柄を思い浮かべ、すぐに起き上がって用事に出かけるのは、意根が意識が念を生じないときに念を転じた結果なのです。
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