衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月23日    木曜日     第1 回の開示 合計1550回の開示

離念霊知心とは何か

念を離れた霊知の心とは、意識が無念の時に六塵を了別する状態を指すのみならず、更に言葉や表面的な思惟分析作用を持たずに六塵の境界及び六塵を超えた法を知り得る心を包含する。これはより巧妙で、より隠微で、より深遠で、より思量性に富み、思量の力はより強大で、問題解決能力に優れた存在、即ち意根である。

意根は意識のように六塵の境界を思惟分析することはできないが、独自の思量方式を有し、その思量性は極めて強い。衆生は主に意根の思量性に依拠して決定を下し、主宰を行う。もし意識の智慧が不足し、意根の独特で隠微な思量性を観察・了知できない場合、その思量方式と脈絡は人知れず、自らの意識にも知られないため、多くの人々がこれを誤解し、頭を悩ませる所以である。

意根が単独で思量する事例は極めて多い。例えば夜間に未解決の問題を抱えたまま眠りにつき、翌朝目覚めた瞬間に意識が解決策を了知する場合、或いは意識が解決困難な問題を放置して他事に移った後、突如として霊感が閃き解決策を得る場合、これらは全て意根の思量作用によるものである。意根は密やかに音もなく思量を続け、意識はこれを全く知覚しない。

意識が一時的に放棄し思惟分析を停止しても、意根は決して放棄せず、常に心中で気掛かりにし、思量し、思索を続ける。意根の心所法は絶え間なく運作し、意識のような顕著な思惟分析作用を持たないものの、その機能は意識の思惟分析と微妙に異なる。この差異の本質は無生忍を証得した菩薩すらも了知し得ないほど深遠なる内容である。

意根の思量が顕著であるか否かは、意識の智慧に対する相対的評価に依る。意根は常にそのように運作しており、特に何事かを隠蔽している訳ではない。問題は意識に観察・発見する智慧が備わっているか否かにある。第八識の心行と運作もまた極めて明白であり、五識や意識の運作と同様に顕著である。ただ意識に強力な観察智慧が備わっているか否かが鍵となる。もし意識の慧力が微弱であれば、意識自身の心行すら観察し得ず、ましてや意根や第八識の心行を察知することは不可能である。

実際、意根が思量する法は極めて広範多岐に渡り、意識が了知し得るのはそのごく一部に過ぎない。意識に智慧が備わらない場合、意根の思量性を全く理解できない。しかし意識の理解如何に関わらず、意根は独自の思量機能と方式を保持している。例えば意根が前世の遺骨に関する問題を解決する場合、意識は如何なる手段を用いてもこれを知り得ず、意根は単独で解決策を思量する。また意根が他者の夢中に現れ説法を授けたり、何事かを請願したりする場合も、全て意根の単独運作によるものであり、その中には意根の思量性が包含されているが、意識はこれを全く知らない。

意根が六塵上で思量する法は、意識に了知させることも、させないことも可能である。これは意図的な許可の問題ではなく、意識に智慧が備わっているか否かに懸かっている。多くの法に関しては、智慧ある者ですら意根の思量内容を察知し得ない。意根の思量結果は時に意識が了知することもあるが、実際には大多数の場合、意識はこれを知覚せず、これは智慧が不足しているためである。

意根が思量を重ね結論に至った場合、「この件は重要である」と判断すれば、重要な問題は六識に実行させ解決するため、六識に了知させる方法を模索する。もし重要性が低く意根が単独解決可能と判断した場合、特に意識を覚醒させて知らせる必要はない。意識が鈍重で覚知性に乏しい状況下では、意根が思量し導き出した結論を意識は全く知らない。しかし意識が不知であっても、意根は変わらず六識を指揮して実行に移す。

一念不生の状態において、意識は念を生じないが、意根の念は通常途切れることがない。一念不生時に意識が突如何事かを想起し、直ちに起身して外出し用事を済ませる場合、これは意根が意識の無念状態において念頭を転換した結果である。

——生如法師の開示
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