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日常法話

2019年05月24日    金曜日     第2開示 合計1552開示

真妄を弁えざる者は悟りを開けるのか?

話頭を参じる:念仏するのは誰か?ここで探しているのは誰か?第八識か、意根か、それとも第六識か?念仏できるこの識心には、必ず念心所が存在する。そうでなければ念仏はできない。もし話頭を参じることが意識心を参究することなら、それは不要である。もし意根を参じるなら、意根には必ず念心所があるが、意根を参究しても明心して悟りを証することはできない。もし第八識を参じるなら、第八識には必ず念心所がある。

あらゆる法の作用には第八識が参与しており、ある人々はこの特徴あるいは理論に基づいて、五蘊十八界が作用する特定の法の中に第八識が存在すると推測し、第八識はこのように作用し、おおよそこのような役割を果たすと推測して、それによって自分は悟ったと考える。

実際には、五蘊十八界のいかなる法の作用も、八つの識が和合して作用した結果であり、第八識が単独で作用した結果ではない。もし自分が第八識を証得したと言うなら、五蘊十八界の作用過程において、八つの識をすべて見つけ出し、区別でき、どれが第八識であるかを明確に指摘し、具体的にどのように作用するかを説明すると同時に、七つの識の機能作用が真実ではないことを否定し、五蘊が確かに無我であることを証得しなければならない。そうして初めて真の開悟明心と言える。そうでなければ解悟ですらない。

実際、大多数の人は推論や推測で悟ることはできず、あちこちで聞き回り、他人から暗示されるのである。もし暗示が正しければそれでもよいが、問題は暗示する人も、五蘊十八界における八つの識がそれぞれどれで、どのように作用し、どのような役割を果たすのかを区別できず、ニンジンとネギを混ぜ合わせて、これが第八識の作用だと人に教え、それで悟りを証したとすることである。

これが証悟からどれほど離れているか測りようもないのに、断固として自分は悟ったと思い込む。実際には誤りである。人を誤らせ自分も誤るという意味での「誤り」で、実に哀れである。このように誤る人に私は何人か出会ったが、基本的な戒律を守れず、基本的な仏法の知見も備わっておらず、基本的な禅定はまったくなく、貪瞋痴の煩悩が重く、おそらく仏教初心者に過ぎない。

念仏という法相は、八つの識が共同で和合して作用した結果である。もし誰かが念仏するのが第八識だと推測し、その推測結果をもって第八識を悟ったとし、明心に属するとするならば、第八識は果たして念仏できるのか?もし第八識が念仏できるなら、六識を滅して第八識に単独で念仏させ、意根を滅して第八識に単独で念仏させることができるはずである。

そうだとすれば、無余涅槃においても第八識は同様に念仏できることになり、無余涅槃は寂静無為のままと言えるのか?それとも涅槃の境界と言えるのか?明らかにそうではない。したがって、このようにして作り出された「第八識が念仏する」というのは誤りであり、明心証悟ではなく、多くても解悟と言える程度で、解悟ですらないかもしれない。

もし第八識が念仏できるなら、臨終の際、六識や意根がどれほど劣悪で、どれほど貪瞋痴に満ち、業障がどれほど深重であろうと、第八識さえ念仏できればそれでよく、阿弥陀仏を感応して極楽浄土へ迎えられることになる。

同様に、自分は開悟して第八識を証得したと考える人々は皆、ある法の作用が第八識の機能であると推測したためである。しかし実際には、いかなる法も第八識が単独で作用したものではなく、八つの識が和合して作用した結果であり、その中には真実と虚妄が混在している。虚妄の法を否定せずに、どうして真実の第八識を証得できようか?真実と虚妄の八つの識を区別できず、どれが虚妄でどのような作用をし、どれが真実で具体的にどのような作用をするのか分からなければ、どうして真如を証得できようか?真実と虚妄が共同で作用する法のすべてを第八識の機能作用だとみなす。これで開悟して第八識を証得したと言えるのだろうか?

もしこれで第八識を証得したと言えるなら、第八識の運行法則に従い、第八識は一切の法の中で作用し、一切の法に参与しているのだから、具体的なある一つの法を指して、この法こそが第八識だと言えば、大多数の人が第八識を証得し、明心開悟できることにならないか?全世界の真妄を区別できない人々が、第八識の体性を少しでも知れば、皆開悟できることにならないか?戒律を守り禅定を修める必要もなく、深い般若智慧も必要とせず、皆開悟できることにならないか?三十七道品を修めず、菩薩の六波羅蜜を修めず、五蘊の我見を断除せずとも、速やかに明心開悟できることにならないか?

仏教の大海はどれほど深く濁っているのか。どれほどの求道者を溺れさせたのか。いったい誰が知りえよう?どう対処すべきか、誰が知りえよう?

——生如法師の開示
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父子合集経選講(四四)

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