意識の思量性は顕性的であり、観察しやすいが、意根の思量性は隠性的であり、観察しにくい。なぜなら、意識の自己反観力は比較的強く、独頭意識は五倶意識と独頭意識自身の一部の運行行相を観察できるが、すべてを観察することはできず、意識が識を転じて智と成していないからである。仏はすべてを観察でき、地上菩薩の道種智は大部分を観察できる。
一方、独頭意識は煩悩の遮障を受け、禅定力が不足しており、識を転じて智と成していないため、意根の運行行相を観察できない。そのため、やむを得ず意根の思量性は秘密的であると言わざるを得ないが、実際には仏や識を転じて智と成した菩薩にとっては、依然として意根の行相を観察しやすい。隠顕は完全に意識の観察智慧にかかっており、意根本身によるものではない。
意根にも証自証分があり、微弱な反観能力を持ち、意根自身の運行行相を観察できるが、意根はそれを表現できず、意識(いわゆる我々)はそれを知らない。意識が意根の運行行相を知らない以上、意根の反観力が強いか弱いかについても、やはり意識は知らない。
意識が知らないことについて、多くの人の意識は「ない」または「存在しない」と否定する習慣がある。では、意識が地球の公転と自転を観察できないなら、地球は静止していると言っても差し支えないが、それは事実に合致しない。一般人の意識はいったいどれほどの事実と真理を観察できるだろうか?ほとんど観察できず、無明が多すぎて厚く、遮障が重すぎる。そして無明が多ければ多いほど、かえって自分の無知を認めず、自分の判断を信じる傾向があり、これはもどかしい限りである。
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