衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月25日    土曜日     第3 回の開示 合計1555回の開示

父子合集経選講(四六)

原文:大王よ。識は其の主と為り、業は攀縁と為る。二種相因りて、初めの識生起す。或いは地獄に趣き、或いは傍生に堕ち、琰摩羅界及び阿修羅、若しくは人、若しくは天に初めの識生じ已りて、各々其の報を受く。同分の心品、相続して随転す。最後の識滅するを、死蘊と名づく。最初の識起るを、生蘊と名づく。

釈:仏は説きたまわく、大王よ、阿頼耶識は衆生の主として、来世の色身を生ずる因となり、業行は来世の色身を生ずる縁となる。因縁和合すれば、最初の識心現じ、来世の色身生ず。この者は或いは地獄身に堕ち、或いは畜生身に堕ち、或いは鬼界に堕ち、或いは阿修羅身・人身・天身に堕つ。来世の最初の識心生じたる時、衆生は各々の果報を受け始む。その後この色身に於ける識心は絶えず運転し、最後に識心滅するに至り、死蘊と称し、屍体の死者と成る。而して最初の識心起こる時を、生蘊と称し、生者と為る。

阿頼耶識如来蔵は衆生の主なり。眼耳鼻舌身意の六識が造作する身口意の業行は一種の助縁なり。因縁合すれば、来世の眼耳鼻舌身意の六識有り、来世の果報始まる。初めの識生じ出でたる後、直ちに自ら地獄に生じたり、天上に生じたり、畜生に生じたり、鬼界に生じたり、阿修羅界に生じたりするを知る。例えば人に生まるべき者は、また最初の識生じ、感受現じ、人の果報現前す。識無き時は、受者無く、苦楽受を覚えず、真の果報を得ず。人の母胎に四五ヶ月以前は識心無く、苦受楽受を覚えず、厳密に言えば其の時は真の受報に非ず、受報に非ずと雖も実は受報なり、其の色身即ち果報身なるも、只心無く、苦楽受を知らざるなり。

同じ色身に於ける識心は、常に流転し作用す。一期の生命中、眼識等の六識は同じ色身に於て絶えず作用す、同分の心品と謂う。最後の識滅すれば、色身は木石と成り、死蘊と称す。最初の識生起するを生蘊と名づく。六識を識蘊と謂う。

——生如法師の開示
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