原文:大王よ。識はその主となり、業は攀縁となる。二種相因って、初めの識が生起する。あるいは地獄に趣き、あるいは傍生に堕ち、焔魔羅界、及び阿修羅、若しくは人、若しくは天に至る。初めの識が生じた後、各々その報いを受け、同分心品が相続して随転する。最後の識が滅するを死蘊と名付け、最初の識が起こるを生蘊と名付く。
釈:仏は言われた。大王よ、阿頼耶識は衆生の主人として、次の世の色身が生まれる因となり、業行は次の世の色身が生まれる縁となる。因縁が合わさって、最初の識心が現れ、次の世の色身が生まれる。この者はあるいは地獄身に堕ち、あるいは畜生身に堕ち、あるいは鬼界に堕ち、あるいは阿修羅身、人身、天身に堕ちる。次の世の最初の識心が生じたとき、衆生はそれぞれの果報を受け始める。その後、この色身上の識心は絶えず運転を続け、ついに識心が滅するに至って、死蘊と呼ばれ、死体となる。そして最初の識心が生起するとき、生蘊と呼ばれ、生者となる。
阿頼耶識如来蔵は衆生の主人であり、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識が造作する身口意の業行は一種の助縁である。因縁が合わさって、次の世の眼・耳・鼻・舌・身・意の六識が生じ、次の世の果報が始まる。初めの識が生まれた後、すぐに自分が地獄に生まれたか、天上に生まれたか、畜生に生まれたか、鬼界に生まれたか、阿修羅界に生まれたかを知る。例えば人に生まれ変わるべき者が、再び最初の識を出生すると、感受が現れ、人の果報が眼前に現れる。識がないときは、受ける者もおらず、苦楽の感受も感じられず、真の果報を得たとは言えない。人は母胎にいる四、五ヶ月以前は識心がなく、苦受も楽受も感じられない。厳密に言えば、その時は真に受報しているとは言えず、受報していないと言いながら実際には受報していると言える。なぜなら、その色身自体が果報身であるが、ただ心がなく、苦楽を感受できないからである。
同じ色身上の識心は、常に流転し作用を続ける。一期の生命の中で、眼識などの六識は同じ色身上で絶えず作用を続ける。これを同分心品と呼ぶ。最後の識が滅すると、色身は木のようになり、死蘊と呼ばれる。最初の識が生起することを生蘊と名付け、六識を識蘊と呼ぶ。
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