衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月02日    火曜日     第2 回の開示 合計863回の開示

修定の方法で参禅することはできません

悟りを開き自らの心の本性を見極めるためには、公案や話頭を参究する方法によってのみ如来蔵を証得し、真如の心である第八識を明らかにすることができる。いわゆる「参究」とは、意識心をもって真如の理を究明し、第八識の所在を探し求めることを指す。参究を行う以上、当然この意識心は明晰であり、智慧と道理を弁えるものでなければならず、曖昧模糊とした昏沈状態にあってはならない。ましてや禅定の中で消失してはならない。理性的な意識心こそが第八識を参究し探求できるのであり、意識心が存在しないか昏沈状態にあれば参究も探求もできず、結果として何も知ることができず、心を明らかにし悟りを得る目的を達成できない。

 ちょうど人を探す場合、探し求める心が必要であると同時に、どこを探すか、どのように探すかを知らなければならないのと同じである。どこを探すか方法も知らず、その人の容姿も写真もなければ、どうしても見つけることはできない。禅を参究して第八識真如を探求するのも同様で、あらかじめ第八識の本質を知っておかなければならない。これは第八識の写真を手に入れることに等しい。ただ写真を持っているだけでは不十分で、どう探すか、どこに現れるかを知る必要がある。これらを知らなければ大海で針を探すようなもので、労多くして得るものはない。

 このような観点から、数息観の方法では悟りを開くことはできない。なぜなら参究の心念が欠けているからである。念を観察する方法でも悟りは得られない。第八識を探求する心念がないからだ。座禅によって禅定に入る方法も悟りを開くことはできない。禅定中の意識は無知無覚であり、第八識と相応できない。これらは全て禅定を修める方法であって、参禅の方法ではない。数息観では注意力が数字に向かい、第八識を参究探求していないため、第八識を見出すことはできない。しかも数息を長く続けると昏沈したり禅定に入りやすくなり、ますます第八識を見出せなくなる。念を観察する場合、意識心が念頭に留まり、真如を参究探求しない限り悟ることはできない。座禅で禅定に入るとき、覚知がなく参究探求の心がなければ、いかなる真理も発見できず、真如第八識を見出すこともできない。

 上述した禅定の修め方は、いずれも参禅による証悟には用いることができない。方向性が不明確で方法も誤っており、心の使い方を間違えているため、結果は推して知るべく、何も得られないに違いない。この状態が続けば、修行を重ねるうちに信心を失い、退転を免れないだろう。修行の過程において最も重要なのは道理を明らかにし、智慧と正しい知見を持つことであり、闇雲に修行してはならない。仏道を学ぶ者は常に自らの修行方法と道筋が正しいか、目標に到達できるかを探究すべきである。もしできないのであれば、随時修行の方向性を調整し、自らに適した方法を慎重に選ぶ必要がある。禅定を修めるには禅定の方法を用い、悟りを開くには参禅の方法を用いる。何が禅であるかを理解し、どう参究し、いつ参究を始めるかなど、一連の問題を明確にしなければならない。さらに自らが参禅する条件が整っているかを観察し、必要な条件を整えた上で初めて参禅を始めることができるのである。

——生如法師の開示
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