観には果たして思惟があるのか。観に思惟がなければ、何も観じ得ない。観じる際の意識には思惟があり、意根にはさらに思惟がある。意根は必ず思惟しており、しかも比較的専注した状態で思惟している。意識の妨げがない。この時のみ、智慧が生じ、新たな発見が可能となる。表面意識の思惟は前奏曲であり、後に続く意根の思惟を引き出すためのものである。意根の思惟こそが決定的な意義を持ち、重大な問題を解決し、何かを証得することができるのである。
故に一念も生じず想念のない時、意識には確かに想念がなくなっているが、意根は最も精進しており、心の想念が転動し、大いに心を用いている。ふと呆然とする間に、一つの主意が生じ、一つの謀略が現れる。これこそ意根の働きによるものである。これが深慮であり、真の深慮である。意識の深慮が意根の深慮を引き出す。もし禅定がなく、あるいは定力が不足していれば、意根に深慮させることができず、意識の深慮も困難である。どうして智慧が生起しようか。意根の深慮を定慧等持と呼び、様々な三昧を生じさせるのである。
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