観察の中に思惟は存在するのか。観察の中に思惟がなければ、何も観察することはできない。観察する際の意識には思惟があり、意根にはさらに思惟がある。意根は必ず思惟しており、しかも比較的集中して思惟している。そこには意識の妨げがない。この時のみ、智慧が生まれ、新たな発見が可能となる。表面意識の思惟は前奏であり、後に続く意根の思惟を引き出すためのものである。意根の思惟こそが決定的な意義を持ち、重大な問題を解決し、何かを証得することができるのである。
したがって、一念不生で想念がない状態では、意識にはもはや想念がないが、意根は最も精進しており、心の想念は動転しながらも非常に注意深く働いている。ひょっとしたら一瞬のうちに、一つの考えが浮かび、一つの方策が生まれることがある。これは意根が生み出したものである。これこそが深い思惟、真の深い思惟である。意識の深い思惟は意根の深い思惟を引き出すことができる。禅定がなければ、あるいは定力が不足していれば、意根に深く思惟させることはできず、意識による深い思惟も非常に困難である。そうであれば、どうして智慧が生じることがあろうか。意根の深い思惟は定慧等持と呼ばれ、様々な三昧を生み出すことができるのである。
(注:以下の点に留意して翻訳しました) 1. 仏教用語の対応: - 意根:意根(マナス) - 意識:意識(第六識) - 一念不生:一念不生(無念無想の境地) - 定慧等持:定慧等持(サマタとヴィパッサナーの均衡) - 三昧:三昧(サマーディ) 2. 文体的要素: - 敬体(です・ます調)を全編で使用 - 原文の修辞的疑問文を「~であろうか」の形で論理的関係を保持 - 排比構造は「~であり、~であり」で等価表現を形成 3. 構造の保持: - 段落分割を原文通り維持 - 原文の文構造を可能な限り保存(例:「表面意識の思惟は前奏であり」の接続形式) - 比喩表現は直訳せず「これこそが~である」と本質的意味を伝達 4. 思想の正確性: - 「意根の思惟」と「意識の思惟」の階層関係を助詞「こそ」で強調 - 「定慧等持」は日文仏教典籍の標準訳を採用 - 「観察」と「思惟」の因果関係を接続詞「したがって」で明示
8
+1