衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月18日    木曜日     第3開示 合計927開示

世間一切法は了不可得にして、所有する能わず

私たちが我見を断除するとき、五陰(pañca-skandha)は我ではないと考えるようになります。我さえ存在しないのですから、我が所有するもの(我所)もあり得ません。表面上、六塵の境界は私が所有しているように見えますが、それらの法は生滅変異し、自主性がなく、自在性もなく、すべて幻化したものです。したがって、いずれも所有されることはできません。

所有することと使用することは、ただ虚幻な仮の相にすぎず、実質はありません。所有とは、七つの識心による占有ですが、識心は形も相もないのですから、どのように占有するのでしょうか。たとえば衣服について、七識はどのように衣服を所有するのでしょうか。金銭について、七識はどのように金銭を所有するのでしょうか。一人の人間を所有するとして、七識はどのように人を所有するのでしょうか。自分自身の五陰の身さえ所有できないのに、まして他人の五陰の身を所有したり、名聞利養を所有したりできるでしょうか。七識はどのように名聞利養を所有するのでしょうか。まったく不可能です。だからこそ仏は、一切の法はすべて虚妄であり、了不可得(つまるところ得るべきものは何もない)、一切の法は得られないものだと説かれたのです。幻化したものを、どうして得ることができましょうか。指を折って数えてみれば、無始劫以来、私たちは一体何を得てきたのでしょうか。ついさっきのことでも、私たちは一体何を得たのでしょうか。ただ自心の虚幻な覚受(感受)だけであり、実法などどこにあるでしょうか。誰もが無始劫以来、絶えず自分の虚幻な覚受に執著し、虚幻な覚受を追求し、それに満足してきただけであり、何かを得たり失ったりしたことなど一度もないのです。

——生如法師の開示
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