我見を断除する時、私たちは五蘊が私ではないと認識します。そもそも私という存在すらないため、私が所有するものもあり得ません。表面的には六境の世界が私の所有物のように見えますが、それらの法は生滅変化し、自主性も自在性もなく、すべて幻化されたものであるため、いずれも所有することはできません。
所有と使用は、ただの虚妄の仮の相に過ぎず、実体はありません。所有とは七つの識心による占有ですが、識心は形も相もなく、どうして占有できるでしょうか。例えば衣服を、七つの識はどうして所有できるのでしょうか。金銭を、七つの識はどうして所有できるでしょうか。人を所有するとは、七つの識はどうして人を所有できるでしょうか。自分の五蘊身すら所有できないのに、ましてや他人の五蘊身を所有することなど。名声や利益を所有するとは、七つの識はどうして名声や利益を所有できるでしょうか。まったく不可能なことです。だからこそ仏陀は、一切の法は虚妄であり、全く得られない、一切の法は得ることができないと説かれたのです。幻化されたものを、どうして得ることができるでしょうか。指折り数えてみましょう。無始劫以来、いったい何を得たというのでしょうか。つい先ほどのことさえ、私たちはいったい何を得たのでしょうか。ただ自心の虚妄なる覚受だけであり、実体のある法などどこにあるでしょうか。人は皆、無始劫以来、ひたすら自らの虚妄なる覚受を執着し、虚妄なる覚受を追い求め、それに満足しているだけであり、何かを得たり失ったりしたことなど一度もないのです。
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