問:ある人が「意根の縁取る性質は極めて広大で深遠であり、縁取らないものはない。そのため意根は何事も記憶できず、この世の過去の事物を記憶するのは常に意識覚知心の働きであり、意根とは無関係である」と述べました。このような説は正しいでしょうか。
答:そのような説は正しくありません。意根が縁取る法は広範であるが故に集中は比較的困難ですが、意根が経験した人事物は依然として記憶されています。ただ意識のように回想することはできず、意根が自ら記憶した法を処理しようとする時は、必ず意識に回想させなければなりません。意識が回想して初めて六識が具体的に処理を進めることができ、もし回想できなければ処理できないのです。これは意根には六識という工具がなく、自ら造作することができないためです。
もし意根が記憶した法に対して何ら処理を加えようとせず、重要性や必要性を認めない場合、意識に回想させようとはしません。意識が回想するか否かは完全に意根の指揮・動員・制御にかかっており、意根の意志によるものです。意根が前世で経験した事柄について、特別な対応や処理が必要な場合にも意識に回想させますが、意識は経験していないため回想できず、不可解で不可思議に感じ、何となくぼんやりとした状態になります。意識が多少聡明であれば半ば理解し半ば理解せず、分かったような分からないような状態になります。例えばある場所を歩く時、意識は非常に懐かしく感じるものの、いつここを訪れたか思い出せません。しかし意根は知っているのです。前世でこの地を訪れたことを知っており、今ここを通る際に意識にも知覚させようとします。しかし意識は回想できず、意根の暗示を受けて何となく経験したような気がするのです。ある人物に出会う場合も同様です。
三五歳以前に親しんだ玩具や事物に出会う時、意識は懐かしさを覚え特別な感懐を抱きますが、はっきり説明できません。これは意根が意識に暗示を与えているためで、意根はこれらの事物を知っていますが、回想できず詳細が分からないため意識に警覚を促すのです。従って意根には必ず記憶機能があり、記憶しているもののそれを思い出すことができません。意識が神通力を得た時は、意根に依って生死を超えた世々の事柄を回想することが可能になります。しかし意根が必要としない場合、意識が神通力を持っていても回想や了別を行わず、依然として意根の指揮と制御を受けるのです。
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