衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月28日    火曜日     第2 回の開示 合計1559回の開示

記憶の問題

問:先ほどある人と出会い、しばらく話をして、互いに連絡先を交換しました。この出来事は意識に記憶されているのでしょうか、それとも意根に記憶されているのでしょうか、あるいは両方に記憶されているのでしょうか?その違いは何ですか。

答:あらゆる経験した人・事・物は、まず意識に落ちます。意識は覚えているかもしれず、覚えていないかもしれません。意識が覚えた後、意根にも記憶される場合もあれば、意根に記憶されない場合もあります。一つには意根が興味を持たないため、二つには時間が短く意根が認識して記憶する間がなく、印象が薄いためです。

特別な場合として、意識が重要視せず記憶しなかったにもかかわらず、意根が以前に出会って比較的熟知しているため、意識が特に覚えようとしなくても、意根自体が記憶できることがあります。その後、意識はそのことを考えようとしないのに、自動的に思い出し、自分でも不思議に思い「なぜ私はいつもこのことを考えるのだろう」と自問します。これが意根が憶念する結果です。

もしある事柄がただ意識に存在し、意根に印象がない場合、再び思い出すことはできません。なぜなら憶起するか否かは意根が主宰して決定し、意根がその事柄を処理するために憶起を必要とするからこそ、意識が生じて思い出すのです。

もし単に意識に存在するだけなら、意識はどうやって思い出すのでしょうか。意識は自生するのでしょうか?刹那刹那に一切の法に存在し続けるのでしょうか?明らかにそうではありません。事柄が過ぎ去れば、意識はその事柄において消滅します。その後どうやって思い出すのでしょうか。

意根が意識に思考を許さなければ、意識は再び生じて思考できるでしょうか。意根が意識に回想を許さなければ、意識は再び生じて回想できるでしょうか。どちらも不可能です。意識に自主性はなく、自由自在に存在し続けることはできません。意識が存在する前提は、意根が常に塵境に触れることです。意識は自ら如何に主動的に生じ、再び主動的に回想するかを主宰できません。意識が主宰識となって意根に取って代わることはできないのです。

もし意識が意根に奉仕するというこの真実の理を認識し、意根と意識の主動・受動の関係を整理できれば、一切の法は容易に処理解決でき、特に唯識の問題も明らかになります。

——生如法師の開示
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まずは枯定を活用して身心を転換しましょう

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