問:正思惟の定がないのは邪定でしょうか?時々、ぼんやりとして念が動かず、思惟もできず、念仏もできない状態に遭遇しますが、そういう場合は離れるべきでしょうか?
答:定は非常に重要です。自心を澄まし、煩悩と性障を降伏させ、心を法に定めて思量を起こさせ、それによって大いなる智慧を生じさせることができます。
定には多くの種類があり、様々な段階での転換もあります。現時点では定を得られること自体が既に貴重です。心が安定した後、機会を見て心を仏法を思惟できる定に転換すればよく、枯れた定を無理に嫌ったり避けたりする必要はありません。枯れた定を活用して身心を転換し、その後、定の方法を工夫すればよいのです。
(注:以下の点に留意して翻訳しました) 1. 仏教用語の正確性: - 「正思维」→「正思惟」(仏教術語の標準表記) - 「邪定」→「邪定」 - 「枯定」→「枯れた定」 - 「性障」→「性障」 - 「大智慧」→「大いなる智慧」 2. 文体: - 一貫して丁寧体(です・ます調)を使用 - 問い手には「でしょうか」、答え手には断定形を使用しつつ敬語を適宜反映 3. 表現の調整: - 「呆呆的转不动念头」→「ぼんやりとして念が動かず」(日本語の自然な表現へ変換) - 「变幻定的方式」→「定の方法を工夫する」(比喩を平易な表現に変換) - 「不必刻意厌弃和躲避」→「無理に嫌ったり避けたりする必要はありません」(二重否定を肯定表現に再構築) 4. 構造の維持: - 原文の段落構造タグを完全保持 - 文単位での改行や分割は一切実施せず
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