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日常法話

2019年05月29日    水曜日     第1開示 合計1561開示

意根における色身への執着の現れ

問:蛇の頭が切断されても、蛇の頭は依然として人を噛むことがある。条件反射を指揮する神経は蛇の体にあり、頭が切断された後も、各器官は一定時間単独で元の動作機能を維持できるため、切断された蛇の頭に触れると、依然として条件反射が起こり人を噛む。唯識の原理でこれをどのように説明しますか?

答:切断されたばかりの蛇の頭には、まだ末那識(意根)と阿頼耶識(第八識)が執持しており、脳の神経はまだ蛇の体と繋がっているため、末那識は依然として全身を制御でき、主に頭部の制御を中心としている。末那識は脳部にあり、中枢神経系を制御して全身を統括しているからである。この時、六識はまだ滅しておらず、頭部の活動には依然として身識と意識が関与している。もし神経が切断されれば、末那識は神経系を通じて体を指揮できなくなり、蛇の体は動けず、頭部のみを制御することになる。

六道の生死輪廻にある凡夫は皆、色身への執着が甚だしく、蛇に限らない。頭が落ちても歩ける動物もいれば、頭の半分が残っていても数ヶ月生き続けるものもいる。長期間植物状態であっても身体を捨てようとしない人や、長く食事が取れず非常に衰弱しているにもかかわらず、なお頑強に生きようとする人もいる。一般にこの現象を「生命の意志」と呼ぶが、実は末那識の色身への執着に他ならない。

ここに意識の執着はあるのか?六識という道具や助手は、末那識が使える限り使い、どうしても使えなくなって初めて放棄する。この時、末那識は身体から離れることを選択し、死亡に至る。

生命が最期まで頑強であるのは、末那識が色身に執着し、六識が滅するのを必死に防ぎ、六識を使って弁別活動を行わせ、意識を覚醒状態に保とうとするからである。六識は苦痛の中でも活動と生存を必死に維持しようとする。

ここからわかるように、いわゆる「我」とは末那識を指す。末那識は90%以上の割合で五陰の「我」を代表しているため、我見を断つには末那識の我見を断除しなければならず、そうでなければ我見は断たれたとは言えない。意識が我見を断っても何の力もなく、末那識が依然として意識に我見を抱かせるため、意識は末那識の支配から逃れられない。

末那識の弁別する智慧も決して弱くはない。六識がない様々な状況下において、睡眠と昏迷の区別を理解し、睡眠と身体が使えない状態の区別を理解し、昏迷と死に瀕した状態の区別も理解している。なぜなら、睡眠・昏迷・臨終・無想定・滅尽定において、末那識の情動と現れ方はそれぞれ異なるからである。したがって、末那識は微弱ではない弁別智慧を持っており、その智慧は非常に大きく、その機能と作用は完全かつ強大である。ゆえにこそ、末那識は主導識(作主識)となる資格があり、五陰身全体の一切の活動を統率するのである。一部の人が言うように、末那識が無意味で機能が欠如し脆弱だということは全くない。

——生如法師の開示
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父子合集経選講(五八)

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