衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月30日    木曜日     第3 回の開示 合計1564回の開示

仏法の最も精緻なる部分は個人の成就によって悟られます

真の解脱の智慧を得ようとするならば、一切法における如来蔵と意根の具体的な役割分担を探求すべきではありません。真妄の心の分業を明らかにし、それぞれの働きを明確に分別すれば、直接的にどれが如来蔵でどれが意根かを指し示すことになります。このような行いの結果は何でしょうか。まさにこのまま直接悟りを開き、非常に手軽で心労も労力も要らず、苦労して何かを学び修め参究する必要がなくなることを望んでいるのではないでしょうか。

各人の修行は各人が得るものであり、他人からの具体的で細やかな助力を容易に得ようと期待すべきではありません。誰が為すべき事柄は、その者が自ら為さねばならず、互いに代わることもできず、また代わり得ないものです。もし仏が衆生に代わって悟道と成仏を成し遂げられるならば、衆生から仏地に至る一切の関所の密意を伝え、衆生に仏地の有様を説き示せば、衆生が充分に理解し知ることで即ち成仏するでしょう。これほど素晴らしいことがあるでしょうか。仏も心労せず、衆生も労力を要せず、全ての者が喜びに満たされるでしょう。しかしこれは実現可能でしょうか。

第七識が為すべき事柄を、如来蔵は代行できません。如来蔵が為すべき事柄を、第七識は代行できません。もしそうでなければ、如来蔵のみ存在すれば全ての問題を解決でき、第七識は望むままに振る舞い、終日眠り続けても滅亡しても構わないことになります。実際にはそのようなことはなく、誰が食事をすれば、その者が腹を満たすのです。

——生如法師の開示
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