問:ある人がこう言いました。末那識が自ら経験した後に攀縁しようとするある法について、意識がそれを強く記憶しようとする意欲を持たない場合、末那識は意識の判断に従い、如来蔵に重要な場所に保存させないため、時間が経つと忘れてしまうと。末那識は如来蔵に法を重要な場所に保存させたり、重要でない場所に保存させたりすることはできるのか?
答:如来蔵は形も相もなく、内部に場所も存在せず、内も外もありません。六識の造作によって形成される業の種子は無形無相の情報であり、同様に形相や場所を持つことはできません。如来蔵に場所が存在しない以上、ましてや場所の重要・不重要という区別はあり得ず、如来蔵は業の種子や業行の重要・不重要を了別することもできません。如来蔵にはそのような判断能力がなく、どの法が重要かどうかを分別することもできません。したがって、業の種子の保存は、法の重要・不重要に基づいて行われるはずがありません。
一歩退いて仮に、如来蔵に重要・不重要の場所が存在したとしても、末那識が如来蔵に法の重要度に応じて種子を保存させることにはなりません。それは理に合わず、如来蔵の法爾としての自然任運の種子保存の理にも合致しません。
実際には、五陰身心が造作する一切の法は、如来蔵が区別することなく常に心体に保存します。業が異なれば種子も異なり、心行が異なれば種子も異なり、種子が成熟する時劫も異なります。「心行が異なる」とはどういうことか? つまり、末那識と意識が法の運行における表れ、貪・瞋・痴の煩悩の有無、故意か無心か、執着するか厭離するか、智慧があるかないか、集中した心か散乱した心かなど、要するにいくつかの識心の心所法(心の作用)の違いです。第六識(意識)と第七識(末那識)の心行が異なり、法への注目度が異なり、心の使い方が異なれば、形成される業の種子も異なります。平たく言えば、業の種子とは心の行為の記録であり、心行が異なれば記録も当然異なるのです。
もう一方で、経験した法について、意識は時に心で覚えようとしますが、鍵は末那識が覚えようとする意思があるかどうかにあります。末那識が覚えたくない場合、意識がどれほど覚えようとしても無駄で、結局は覚えられません。覚えているか覚えていないかに関わらず種子は保存されますが、保存される種子は全く異なります。末那識と意識の主従関係をはっきりと区別できれば、意識の作用をこれほど高く評価することはなくなるでしょう。
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