仏は王に言われた。「耳に捨の声を聞き、捨の想いを起こす。人が夢の中で、他者が説く不了義の句を聞くが如し。汝の意に如何。この人、覚めた後に、夢中で聞いた声を憶念する。実有するか否か。」王は答えた。「否なり。」
仏は王に言われた。「この人の夢を執って実と為すは、智者なるか。」王は答えた。「否なり、世尊。何となれば、夢中には畢竟音声無く、況んや更に不了義の句有らんや。知るべし、この人は徒らに自らを労して、全く実無しと。」
釈:仏は説かれた。「大王よ、衆生が善悪を離れた捨の声を耳にし、これを実と執ることは、あたかも人が夢中で他者の無意味な不成句の言葉を聞き、目覚めてから絶えず夢中の声を回想するようなもの。これは実在すると汝は思うか。」浄飯王は答えた。「実在せず、世尊。」
仏は言われた。「大王よ、己の夢を実在と見做す者は智者と言えようか。」王は答えた。「智者にあらず、世尊。何故なら夢中には音声無く、まして不成句の言葉などあろうか。この者はまさに空しく心を駆りて疲労すれど、実事無し。」
捨心とは快も憂いもなく、両極を離れた中間の状態。貪愛も嫌悪もなく、善悪苦楽を超え、心静かに波立たず。例えば人を見て無感覚、好悪の情なき時、これ捨心なり。若し喜び起これば楽受となり、厭わしめば苦受となり、瞋心現る。故に受は三種に分かれる:苦受、楽受、不苦不楽の捨受。
捨の声とは善性にも悪性にも属さぬ中間の状態。夢中に他者の不成句を聞き、無意味ながら実事と執りて憶念を続く。仮に捨の境地を実有と執り、その念に貪着するも、捨の六塵境界が同様に虚妄であり、生死を離れざることを知らぬ。
ここでの「不了義句」は仏典の「不了義経」とは異なり別義。仏典は了義経と不了義経に分かれる。了義経は真実を説く実法、即ち大乗経典の第一義諦たる如来蔵法を宣説す。これ了義、根本の実相法なり。他の如来蔵法に触れぬ経典は不了義。了義経中にも不了義の句あり、不了義経には更に多く含まれる。
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