六祖は壇経において大衆に向かって言われた:「我に一つの物あり、頭もなければ尾もなく、名もなければ字もなく、背もなければ面もない。諸君はこれを識るか?」神会という小僧が言った:「それは諸仏の本源であり、神会の仏性でございます。」六祖は言われた:「名も字もないと言ったのに、お前はまだ本源仏性だと言う。お前は将来、知解の徒に過ぎないだろう。」
知解の徒とは何か。知も解も意識のなすところであり、意根が知らず解さなければ、証得ではない。神会小僧の意識は本源仏性であることを知ってはいたが、本源仏性を証得していなかった。そこで六祖は彼を知解の徒と言い、さらに将来も知解の徒のままだと予言された。彼はただ仏法を解悟するだけであって、仏法を証得することはできず、どれほど多くの法を説き、どんな法を説いても無駄だというのである。
六祖および当時のすべての禅師たちは、知解にふけって実践的な修証を怠ることを否定し、情思意解(感情や思考による解釈)を否定し、真剣に参禅の功夫をせずに、いたるところで言葉をひけらかすことを否定した。それではただの知解の徒に過ぎず、真の大乗菩薩にはなれない。今の衆生の根器はさらに浮ついており、さらに実践を軽視し、まったく禅定を修めない。現代の情報技術が発達し、多くの人はあらゆることを知ってはいるが、何一つ証得することはできない。
このように、意識がどれほど多くの仏法を知っていても無意味であり、依然として祖師に叱責されるだけで、解脱にわずかな利益ももたらさない。功夫を重ね、真実の修行と実証に励み、着実に禅定を修め、着実に止観を修め、着実に参禅悟道すべきである。小賢しい真似をして仏学知識をひけらかしてはならない。たとえ三蔵十二部経をすべて知り、暗誦できたとしても、たとえ三蔵十二部経を説くことができたとしても、足を地につけて実証的に無我を体得することには及ばないのである。
3
+1