問:なぜ仏は、七年から七日までの異なる期間において、精進して四念処観を修行すれば、いずれも証果を得られると説かれたのですか?
答:これは、善根が深く、煩悩が軽微で、遮障が少なく、前世において仏法を学んだ劫が長い人々を指します。彼らがもし仏の求められるように精進して修行すれば、数日から数年で証果を得られます。一方、無始劫以来仏法を学んだ期間が短く、煩悩が深重で、遮障が重い人々は、七年以上の精進修行を必要とします。おそらく大多数の人は百年かけても証果を得られず、中には呼吸観すらしっかり行えず、心がどうしても静まらず、ましてや証果など到底無理な人もいます。
しかしながら、仏が説かれたように、いかなる人であれ、精進して四念処観を修行し、心心念念(一瞬一瞬の心)が四念処であり、心心念念が観行(観察と実践)であり続け、無始劫以来の五陰世間に対する執着の習気を改め、煩悩と業障を降伏させることができれば、証果はやはり難しくありません。難しいのは、業障の関門を突破できず、自ら決心を固めて修行に励もうとせず、散乱の習気を降伏させられない点にあります。真に勇猛精進を実践し、仏経に説かれるような修行を成し遂げられれば、必ず証果を得られるでしょう。
この四念処観の修行方法は非常に殊勝です。皆さんは小乗の修行を軽視してはいけません。実はこれは修行の近道なのです。仏が説かれた近道こそ真の修行の近道であり、戒・定・慧を具足し、実修実証を伴うものであって、口先だけのものではなく、感情的な理解でもなく、ただ考えたり思索したりするだけで証果を得られる類のものではありません。
仏が私たちに教え導かれた修行方法からこそ、真の実修と実証とは何か、どのような代償を払う必要があるのかを体得すべきです。一部の人が想像するように、意識心で理解するだけで、何の代償も払わず、何の戒も守らず、何の定も修めず、意識的理解による乾慧(理論のみで実証の伴わない智慧)で証果を得たとみなすようなものではないのです。
私たちは深く仏陀の智慧を信じ、仏陀の教えに従うことによってこそ、自らの修行にとって大きな益があるのです。
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