衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月04日    火曜日     第2開示 合計1576開示

父子合集経選講(六七)

これは世俗法で言う「眼見は実、耳聴は虚」という道理と同じです。他人の話を聞くことは意識の理解に相当し、まだ証実されておらず、自分の心の中はまだ虚しくて、本気で問い詰める勇気がありません。その後、眼で見て、はじめて本当に知ったことになり、「ああ、そうだったのか!」と言うようになります。この時、人に対しても事に対しても、どう処理すべきかが分かるのです。眼見は意根の証得に相当し、耳聴は意識の理解に相当します。これはまったく異なる二つの階層です。意識の理解は他人から聞いたものであり、意根の証得は自らの眼で見たものであり、現量の知であり、真実に見たものです。理解というものは道聴塗説に相当し、実際に自らの眼で見ることとは大きな差があります。たとえば、ある人がどうこうだと聞いて、心の中に一つの見方を生じ、ある印象を持ったとします。しかし、実際に会って観察してみると、なるほどこうだったのか、心の中の印象とは完全には一致しない、会った時の感覚と印象のほうがより真実で信頼でき、その後はじめてその人に対して相応の態度を取ることができるのです。ありのままに了解し観察した後は、自分の観点、意見、考え、行為造作が、聞いた時とは違ってきます。だからこそ私たちは心を用いて熏習し、内心の奥深くまで熏習し、真真正正に観行 (vipaśyanā-caryā) して諸根は幻の如く、五陰 (pañca-skandha) は無我であると観ずるのです。観行 (vipaśyanā-caryā) の時とは第六識の思惟分析であり、分析した後、意根に渡し、意根がこの理の真実性を認可すれば、証果となります。意根が意識の思惟観行 (vipaśyanā-caryā) の理を認可しなければ、何の役にも立ちません。意根にできるだけ早く証得させるには、証拠が確実でなければならず、できるだけ現量観察の域に達するようにしなければなりません。観行 (vipaśyanā-caryā) の途中にはまだ多くの段階があり、多くの道を歩み、多くの法を修めなければならず、絶えずさまざまな資糧と道糧を修集し、絶えず福徳資糧を修集する必要があり、さらに戒律、忍辱、禅定 (dhyāna)、智慧を、この六波羅蜜の条件を絶えず円満させていくのです。一切の諸法はことごとく空寂である、これを空解脱門といいます。空にも一つの空相があるわけではなく、空法そのものには空相がなく、ただ一つの名詞概念にすぎず、相がありません。空には空の相貌がなく、一つの相もなく、空相すらない、これを無相解脱門といいます。もし一切の相がことごとくなくなったならば、私たちにはまだ何の希求があろうか、まだ何の願いと願求があろうか? 一切の法はみな空であり、あなたはまだどうありたいと望むのか? 願求がなくなれば、これを無願解脱門と名づけます。このように三法が空と共に行じれば、心は解脫されます。これを三解脱門といいます。空、無相、無願、この願とは希求、願果、希い発する誓願のことであり、一切が無いのだから、何を抓み取ろうともすべて空であり、成仏したとしても一場の空です。『金剛経』は、成仏の果位は不可得であると説きました。成仏の果位すら不可得であるならば、あなたはまだ何を得ようとするのか? 私たちが何かを得たと感じようとも、仔細に分析・論証してみれば、何も得ていないことが分かり、得る人というものが根本的に存在しないのであって、まして得る法などあるはずがありません。そこで人がこう問うでしょう。もしすべて不可得であるなら、私たちは何を修めるのかと。修行とは、まず一切の法は不可得であるという道理を知り、次に一切の法がみな不可得であると証得し、最後に内心空空となって、大解脫を得て、もはや「有所得」に繋縛されることなく、一切の生死の苦から解脫されるのです。たとえ本当に何も得ないとしても、私たちはこの「不得」の法を得なければならず、さもなければ生死輪回は止まないのです。一切の法はみな虚妄であって不可得であり、私たちが苦報を受けるのは偽りですが、しかし誰も苦報を受けたくはありません。悪行を造作するのは偽りですが、しかし私たちも悪業行を造作してはなりません。人を殺すということは偽りですが、しかし私たちも人を殺してはなりません。地獄は偽りですが、誰も行きたくはありません。成仏は偽りですが、私たちはみな成仏したいのです。修行とはこういうことであり、偽りの法には偽りの法の作用があり、真には真の作用があります。すべてを滅除することができない以上、偽りの法をより良く、より清浄 (viśuddha/pariśuddha) に変えていくのです。私たちの七識心は偽りですが、しかし大きな作用を持っており、ならば必ず神様に良い作用を起こさせなければならず、偽りをすべて放棄してしまってはいけません。そうしては成仏できないのです。この弁証法は一見矛盾しているように見えますが、証果の後になれば矛盾していないことが分かります。

——生如法師の開示
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