なぜ舎利弗が母胎にいる時、その母の論弁の智慧がそれほど優れていたのか。それは舎利弗の意識の智慧か、それとも意根の智慧か。これは意根の智慧である。もし意識の作用が母胎内で強大であるなら、全ての人は生まれながら平等に智慧を持つべきである。三、四歳の子供が教わることなく結跏趺坐するのは、前世から意根が持ち来たしたものであり、天才児が示す智慧もまた意根の智慧である。
なぜ意根の智慧を低劣だと主張する者がいるのか。もし意根の智慧が真に低劣なら、生来の大智慧者など存在しない。諸仏菩薩が入胎・住胎・出胎する時、五蘊の世間に迷うことなく大智慧を具えている例をみよ。また特定の才能を持つ凡夫衆生が幼少期から天性の素質を示し、他から学ばず教えを受けずとも能力を発揮するのは、全て意根が持ち来たしたものであり、意根の智慧である。
同じ意識心を持つにも拘わらず、なぜ舎利弗は仏の説法を聞いて即座に四果阿羅漢を証得し、他者は凡夫のままなのか。舎利弗の意根は前世に数度にわたり証果を得ており、今世の意識は新たに生じたものであるため、再び法理を聞く際に初めから思惟観行する必要なく、仏法を聞く刹那に無我を証得し、前世の果位を継承したからである。他者の意根は未だ証果を得ておらず、仏法を聞いても意識が多少明らかになるのみで、定中に仔細に思惟観行して初めて証果できるため、禅定なくして有効に思惟観行できない時は証果できず、凡夫のままである。
証果の際、もし意根を用いずに証果するなら、来世においてこの者に証果の智慧は残るか。初果の者は七返人天を経て四果を証得し、無余涅槃を取る。初果を得た後天命を終えて天上に生ずる場合、その意根は未証果であり、意識も新たに生じた未証果の状態であるなら、天上にあって初果の者と言えるか。明らかにそうではない。この者が天上で再び初果を証得する必要があるか。当然再び観行して証果すべきである。意識も意根も未だ証果を得ていないからである。
この天人が天上で再び証果を得た後、天命を終えて再び人間に生ずる時、意根が未証果であり意識も新たに生じた未証果の状態であるなら、この者は再び初果を証得し、さらに七返人天を経なければならない。このようにすれば、この者は永遠に初果を再取得し続け、二果・三果・四果の者となることができず、一旦人間界あるいは天上界において証果の因縁が具わらなければ、初果さえ証得できず凡夫に留まる。いずれの時にか四果を証得し三界の生死を解脱できようか。故に証果とは意識と意根の双方が証果することを以て成立するのである。
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