衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月04日    火曜日     第4開示 合計1578開示

証果の時は必ず意根が証果するものであるべき

なぜ舎利弗が母胎にいる時に、その母の論弁の智慧があれほど優れていたのか?それは舎利弗の意識の智慧なのか、それとも意根の智慧なのか?これは意根の智慧である。もし意識の働きが母胎の中で非常に強力なら、誰もが生まれてくるとき、平等であるはずで、皆智慧を持っているはずである。中には三、四歳のときに人に教えられなくても、あぐらをかいて座禅を組む子どもがいるが、これは意根が前世から持ち越したものであり、天才児が示す智慧もまた、意根の智慧なのである。

なぜ意根の智慧は非常に低劣だと言い張る人がいるのか?もし意根の智慧が本当に低劣なら、生まれつきの大智者は存在しないはずである。例えば諸仏菩薩は入胎・住胎・出胎のとき、いずれも五蘊世間に迷わず、大智慧を有している。また、ある種の特技を持つ凡夫の衆生の中には、幼い頃からある種の天賦の才を持ち、他から新たに学ぶことも、人に教えられることもなく身につけている者がいるが、これらはすべて意根が持ち越したものであり、意根の智慧なのである。

同じ意識の心でありながら、なぜ舎利弗は仏の説法を聞いてその場で四果阿羅漢を証得し、他の人は依然として凡夫なのか?それは舎利弗の意根が前世ですでに何度も証果しており、ただこの世の意識が新しいため、再び法理を聞いても、最初から思惟観行をやり直す必要がなく、仏法を聞いたその瞬間に意識が無我を証し、前世の果位を継続したからである。一方、他の人の意根は証果したことがないので、仏法を聞いたとき、意識がいくらか明らかになるだけで、じょうの中で注意深く思惟観行して初めて証果できる。したがって、禅定がなくて効果的に思惟観行できないときには証果できず、依然として凡夫なのである。

証果のとき、意根による証果は不要だと言うなら、来世のこの人は証果の智慧を持っているだろうか?初果の人は七返人天の後に四果を証得し、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) を取证する。初果を証した後に命終して天に生まれるなら、その人の意根は証果しておらず、意識も新しく生まれたもので証果していない。その人が天に生まれて、まだ初果の人なのだろうか?明らかにそうではない。この人は天に生まれて、改めて初果を証し直す必要があるのだろうか?もちろん、再度観行 (vipaśyanā-caryā) によって証果する必要がある。なぜなら意識も意根も証果していないからである。

この天人が天で再び証果した後、命終して人間に生まれると、意根は証果しておらず、意識もやはり新しく生まれたもので証果していないため、この人はさらに初果を証し直さなければならず、その後さらに七返人天を経なければならず、再び初果を証し直す必要がある。このように、この人は永遠に初果の取证をやり直すことになり、二果・三果・四果の人になることはできない。人間か天上かを問わず、証果の因縁が具足しなければ、初果さえ証得できず、ただ凡夫であるほかない。では、いつになったら四果の人となって三界の生死から解脱できるのか?したがって、証果とは意識と意根の両方が証果して初めて成立するのである。

——生如法師の開示
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