真に解脱を願う仏教修行者は、日常生活の中で自心の様々な覚受を入念に点検すべきである。何に貪愛しているのか、何事に執着しているのか、何事に心思と精力を費やしているのかを検べることだ。見出した後は、これがどのような心理であり、どんな意味があり、結果はどうなるかを分析しなければならない。そして自らの貪愛と覚受に対処する方法を考え、修行すれば遮障が掃除され、道業の進歩は速くなる。
我々の無始劫以来の貪りの習気は甚だ重く、自ら気づくのは容易ではない。慣れきって当たり前になっているからだ。貪りの習気を断ち伏せた経験者だけが自他ともに貪心を発見できる。ちょうど香庭に長く住めば香りに気づかず、糞壷に長くいれば臭いに気づかないように、香庭の外の者こそ清香を嗅ぎ分け、糞壷の外の者こそ悪臭を識別できるのである。
貪りの範囲は広く、欲界にある法で好むものは全て貪りである。詩詞歌賦に長けた文豪や自在に筆を揮う画工は、ほとんど鬼道へと消え去っている。それらは全て貪りに属するからだ。ましてや他の方面、情愛などはなおさら貪りで、鬼道での受生から離れられない。常に馬を描く者は神似に至り、死後は馬腹に投身する。常に鬼類小説を書く者は極めて神がかり的に書き、死後は鬼に転生する。常に何を考えているかで、死後はそのものと相伴うのである。画工が馬を描くことに専念すれば心は馬と相応し、来世には馬に託生する。鬼神小説をよく書く者は心を鬼神に投入し、鬼神と相応して死後は鬼となる。我々が今念仏するのは、心が仏と相応すれば仏の傍に生まれるからである。心が善と相応すれば善道に託生し、心が悪と相応すれば悪道に託生する。
鬼道の業報が終わってもなお福徳が残れば畜生道で受生し、畜生道の業報が終わってなお福徳が残る者だけが再び人間界で受生する。故に人身を得る時間は極めて短く、三悪道にいる時間は甚だ長い。全ての衆生は苦受が多く、楽受は極めて少ない。だからこそ我々は未来世のために考え、享福を減らし後世に福を多く残すべきである。大福あってこそ速やかに人身に投生できるのだ。
善根福徳が深い者は仏の傍で仏の指導と薫染を受け、修行が極めて速い。仏がおられなくても煩悩を断った菩薩や阿羅漢の傍では修行が非常に速い。いわゆる「朱に交われば赤くなる」である。大貪は細かく観察できるが、微細な貪は極めて多く、ほとんど誰も観察できず、煩悩を断った者でなければわからない。人身を得る機会がいかに稀少か、人身を得る時間がいかに短いか、人身を得て証果し解脱することがいかに稀で困難か。既に人身を得た我々が、この得難い時機をいかに把握し精勤修証して微少な解脱を得るか——これこそ我々が常に深く思惟すべき問題である。
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