諸法無行経において、「行」とは運行し運転し現れるという意味であるが、諸法は実は実体なく、運転することもない。何故かというと、一切の法は涅槃の相であり、寂静にして作為なく、生ぜず滅せず、繋がれることも束縛されることもなく、また解脱もなく、常に自ら寂静なること虚空の如し。一切の法は如来蔵の相であり、如来蔵を見れば則ち一切の法を見ず、これ即ち如来蔵に隠れ住するなり。何れの法が如来蔵にあらざらんや。全ては如来蔵の空性なり。故に三界の世俗法相なく、善悪の相なく、壊乱の相なく、対立の相なし。
菩薩は常に畢竟空に遊び、心は常に定中にあって執着なし。もし執着あらば則ち菩薩にあらず、もし一切の好悪の相を見れば則ち菩薩にあらず。故に我が心は柔らかく、軟らかきこと極まり、言い表わすべからず。明心の後こそ真実の大乗菩薩なり。もし心性が明心以前に真に転換を得ず、未だ合格なる大乗菩薩の心性を具えざるならば、真の大乗菩薩となるは難く、或いは成し得ざるなり。
菩薩には菩薩格あるべきであり、人には人格あり、仏には仏格あり、その心性は皆その果位に相応すべきが正常なり。然らずんば仮の菩薩、偽りの仏なり。人格を具えざる者は、完全なる人ではなく、真の意味における人にあらず。
菩薩は無量劫にわたり十方諸仏菩薩に学びを受け、説法において正しき部分は十方諸仏の法に属し、誤れる部分は自己の修証未だ完備せざる法に属す。仏法は一尊仏の所有に帰すべからず、ましてや某かの菩薩の所有に帰すべからず、凡夫は更に仏法を持つべからず。仏法あるは仏なり、菩薩法あるは菩薩なり、凡夫法あるは凡夫なり。各層の者には各層の法あり、故に各人は大いなる心を発し、早く仏法を具足してこそ、速やかに成仏し得るなり。
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